chapter 6

3/3

4人が本棚に入れています
本棚に追加
/24ページ
「スッ…ゲ、壮絶~」 「酸素酸素」  息を止めていたのか、その辺の空気を一気に吸い込んだ浜名キャプテンの額にはうっすら汗が浮き出てる。  比較にならない量の汗を拭いもせず、力尽き、ふらついたワンちゃんの元にセカンドから松谷が駆け寄って、くず折れかけた身体を支える。  レフトスタンドからの拍手が一層大きくなった。 『実に素晴らしい投球を見せてくれました、西城高校の成瀬君。初めてのマウンドとも、久しぶりのマウンドとも、とても思えません。リリーフピッチャーとしての役目をしっかり果たし、九回表、最大のピンチを0点にしのぎきりました』  興奮気味の実況の中、松谷に肩を借りベンチに引き上げるワンちゃんを中心とした西城ナインに、球場全体から盛大な拍手が贈られる。  ワンちゃんに課せられた役目は、終わった。  足取りも重くレフトのベンチに引き上げるワンちゃんを追っていたカメラが、その前で出迎える一年生投手、相原駿の姿を捉えた! 『あっ! ダッグアウト前に負傷した相原君の姿が見えます! どうやら左肩の治療を終え、戻って来た模様。怪我の程度は定かではありませんが元気そうです。今、彼の代理で投げた成瀬君が相原君の右肩に手を掛け、何か言葉を交わします』 『あの様子なら骨折は免れているでしょう』 『そうですか?』 『ええ、恐らく。それにしても試合中に戻ってこれてよかったです。一年生ながら相原君は、今の西城になくてはならない存在のようですから、彼がベンチにいるだけで選手は活気を取り戻すでしょう』  そのゲストの声が聞こえたわけではないだろうけど、相原を中心に集まった選手達の中から最終回のファーストバッター、高木が抜け出して、手にしたバットをブンブン振り回しボックスに向かった。  確かに、生気がみなぎってる。  迎え撃つ門倉の投球練習を見ながら、浜名キャプテンが誰にともなく呟いた。 「一点のビハインドで六番の下位打線から、か。西城に勝機はまずないだろうな」  その呟きに、誰も何も答えない。  西城を応援している俺達にとって、この沈黙は肯定の意思表示、だ。  ヒートアップしていた食堂の熱は、大きすぎる現実(てき)を前に波に乗り切れずにいた。  試合は九回裏、最後の攻撃で九対八の一点差。  がむしゃらに振っていた高木のバットが、2‐2のカウントで五球目、高目外角に外したストレートに偶然当たった。  意図なんか少しもない。絶対まぐれ当たりだけど、そんなのどうでもいい。  打球は一、二塁間をきれいに抜け、シングルヒットに。  突き放せない西城を前に、門倉にも焦りが出たんだろうか?  粘りを見せる二番バッター柴田に意識を集中した何球目か、ファーストランナーの高木がバッテリーの目を完璧に盗んで、二塁への盗塁を成功させた。  慌てたようにキャッチャーがマウンドに走る。  そんな光景を拝めるなんて、思いもしなかった。  大いに盛り上がる三塁側。そのベンチのガードに、ワンちゃんと相原が見えた。 『ああ! 成瀬君の姿が今、ようやく見えました。かなり疲労していたようなので気になっていましたが、どうやら大丈夫のようです』 『それにしても室生君を相手に、あのピンチをよくしのぎました。まさか大会初日からこれほどハイレベルな試合が展開されるとは、正直思いもしませんでした』 『同感です』 『初戦…まして初日は、どうしても選手達に気負いや堅さが出ますから……はっきり言って実力を出せた方がまず勝ちます。今日の第一、第二試合はそうだったんですが』 『甲子園のプレッシャーに勝った方が生き残れる、というわけですね?』 『そうです。ですから観客を取り込んで、試合そのものを楽しめるようなゲーム展開にはなかなかならないんですが』 『それだけこの球場のプレッシャーは半端ではない、と』 『ええ。私も選手達には『エラーして当然、悔いのないプレーをしろ』とよく言ってました。彼らはプロじゃないですから』 『なるほど』 『あ、私はですよ。監督も選手も十人十色、色々な人間がいます。ただし共通している事が一つありますが』 『それは?』 『あそこにいる選手達は、ごく普通の高校生、十代の少年達だという事です』  なんかすっげバカバカしいほど当たり前の事、言ってないか?  けど、どうしてその事がこんなにすんなり心の中に入ってくるんだろ?  そんな事を考えていると、画面がワッと歓声に沸いた。  顔を上げると柴田がバントを成功させ、高木を無事三塁に送ったところだった。  こんなに簡単に成功させるとは、おっさんの言葉を借りるなら西城が実力を発揮しているのか、明峰が勝利へのプレッシャーに負けそうなのか。  その明峰のベンチからも伝令が出て、門倉の周りに内野手が集まる。  ……こんな余裕のないシーンも、もしかして初めてかもしんない。  それを証明するように、ライトスタンドまで騒然としてきた。 「やるねえ、あいつら」 「ああ、そうだな。全然負けてねえ」  二人の先輩の表情も、何だか誇らしげに見える。  不思議だ。  勝負の結末への不安は常に付きまとってるのに、こんな満ち足りた気分で和泉の仲間と試合観戦してるって事が、不思議でしょうがない。  とにかく、西城にはビッグチャンス到来だ。  バッターボックスには、好打者の久住。  このチャンスをものにできれば、ひょっとしたら延長も有り得るんじゃないか?  急に湧き上がってきた希望の光に、それまで以上に心臓が跳ね上がり、すぐに同じ速度で萎えてしまった。  延長になったって、西城に勝ち目なんかあるわけないじゃん。  まともにマウンドに上がれるヤツもいないのに。  それでも勝利を願うのは、この世界に身を投じる俺達に課せられた使命?  それとも、宿命、みたいなモノだろうか。  ベンチに鈴なりになって、祈るような顔付きの西城のチームメートの表情が順に映る。  恐らく俺達と同じ、この回で決着がつく事を願い、ホームランだけを期待してるんだろう。  カメラがレフトのダッグアウトから離れ、今度は敵対するダイヤモンド上のピッチャーに移る。  そこにはもう今大会ナンバー1投手、門倉の姿しかない。  珍しくユニフォームで額の汗を拭った門倉の初球、久住のバットが門倉の球を、初めて完璧に捕らえた!  前回のワンちゃんに匹敵するほどの快音を響かせ、打球はぐんぐん上がり、センター後方に飛んでいく。 『これは大きい! 入ればさよなら、入らなくても犠牲フライには十分の飛距離です!』  行けッ!   スタンドまで届け! 届いてくれっ!!  立ち上がり、画面の向こうに映る白球を追い続ける。  と、フェンスぎりぎり、センターの一番深い所で打球は構えたグラブの中に収まり、それを見た高木がタッチアップでホームに還って来た。 『ホームインッ! 西城高校同点ッ! この土壇場で、また試合を白紙に戻しましたッ!』  まくし立てるアナウンサーと対照的に、レフトスタンドから地味な拍手が贈られて、苦笑が洩れた。  落胆を隠し切れない観客の心情はよくわかる。  入ればゲームセット、甲子園初出場初勝利だった事を思えば、その拍手も仕方ないのかもしれない。それほど際どい打球だった。  そこにはプレーしている高校生への配慮や気遣いが消えてしまってる。  いつの間にか観客は、地元高校の応援じゃなく、ゲームそのものを楽しんでる。  そうさせるだけの魅力を両校が持ってる、それがすごい。  まぁ観客の心情は置いといて、今のは値千金の価値ある犠打だった。  今後の展望がいくら真っ暗でも、九回裏で同点に追いついたのはやっぱすごい。  取り合えずほっとして、ランナーのいなくなったダイヤモンドに目を遣った。  どんなに厳しい状況でも一心にプレーする。手を抜くヤツは一人もいない。  その精神力の強さがあるから観客がのめり込むんだ。  選手が諦めて望む試合で、第三者である観客を感動させる事なんかできるわけない。  九対九の同点に追いつき、いつの間にか優勝候補の明峰に少しも引けを取らないくらい観客の心を掴んだ西城ナイン。  呼び水となったのは、やっぱワンちゃんだ。  まだマウンドに上がる前の……ホームランを打つ前の彼のプレー。  出だしこそ陰りがあったものの、回を追うごとに光を取り戻しつつあった、フィールダーとしてのワンちゃんの輝き。  吉野にははっきりと明かさなかったけど、敵としてあれほど嫌なモノはない。  中立な立場で見ている観客をも魅了し、自分の味方に引きずり込んでしまう吸引力。  ああなった時が一番恐い。  中三の県大会決勝戦、サードを守っていたワンちゃんの一プレー一プレーに、ほとんどの観客が歓声を上げ、酔いしれていた。  松谷とのコンビネーションを完全に自分達のものにした今、その効果は倍以上になってしまった。  あのままワンちゃんがショートにいれば、試合は西城が勝利していたかもしれない。  いや、絶対勝ってた。  けど現実には、ワンちゃんはショートにいなくて、すでに2アウト。  ラストバッターはワンちゃんの代わりに守備についたヤツ。確か迫田、だったか?  同点に追いつかれた門倉にいくら焦りがあろうと、そう簡単に打たせやしないだろう。  門倉の真の強さ、恐さも、そんなところにあるんだから。  案の定、見せ付けるような堂々としたピッチングを披露し、最後には得意のスライダーで、二度目の対決だったバッターをあっさり三振に仕留めた。 『ものすごい事になってきました、夏の全国高校野球、甲子園球場初日の第三試合。前年度優勝校明峰高校対、初出場、西城高校の試合は、九回裏に西城高校が犠牲フライで一点を加え、九対九の同点に追いつき、延長戦へと突入します』  アナウンスと共に選手ではなく、大会係員が再びグラウンドに散らばって行く。 『白熱した試合ですが、今後は西城の守備陣、特に投手不足が懸念されますが』 『ええ。負傷した相原君はもちろん、さっきの投球でもわかるように成瀬君は体力的にも精神的にも、すでに限界でしょう』 『西城高校の和久井監督は、どう動くと予想されますか?』 『そうですね、――恐らく投手交代はないでしょう。誰が投げても厳しいなら、このまま成瀬君で行くと思います』 『では、対する明峰はどうでしょう?』 『百戦錬磨の門倉君に不安は少しもありません。こちらは安心して見てられますが、相手は西城、最後まで油断は禁物、というところでしょうか』 『とにかく試合終了まで目が離せません。それでは両校の戦いぶりを振り返ってみましょう』  その言葉と同時に、試合が動いた回のVTRがピックアップされて流れ始める。  と、和泉の部員達もガタガタと席を立ち、散らばって行った。 「? 何事?」 「便所だろ」  至極当然とも言える色気のない返事に、ガックリと頭が垂れる。  最高に盛り上がってる時にそれかよッ! って言いたい。  確かに、俺がここに来てからもう二時間半は過ぎてる。  それより先に集まっていた部員達はもっと長くここにいるわけだし。  短気な連中が三時間近く文句も言わず、よくじっとしてられたよな。  そう思い、次々出て行く部員を振り向いて、ドアの脇に冷茶用のタンクを見つけ、腰を浮かせた。 「なんだ? 一聖、お前もか?」 「違えよ! 喉渇いたからお茶飲みに行くだけ」  目で示すと、その先を察した義純までがすっくと立ち上がった。 「付き合う」 「へ? ……」  俺達が二人で行動すると、他の部員がやたら気を遣うんだ。  だから、こんな集まりの中で一緒に何かするって事はまずない。ってか避けてる。  案の定、俺達同様水分補給しかけてた一年がさーっと引いてしまった。  大半の原因は、隣に立つこいつのせいだ。  俺はここまで他人を排除するオーラは発してない。  重ねてあった紙コップを手に取り、冷茶の入ったほうのタンクのレバーを押してなみなみと注ぎ、さっさと南側の窓辺へ移動する。  悠然と後を追ってきた義純も、俺の隣で窓ガラスを背もたれ代わりにして、遠くなったテレビ画面に目を向けた。  今の試合のVTRが終わり、今日の第一、第二試合のハイライトに移る前の、ほんの僅かの間、現在のグラウンドの様子が映し出される。  翳ったグラウンドにも水が撒かれ、荒れたマウンドをトンボできれいに成らして行く。  この時刻での水撒きが、また、つい先日のワンシーンを思い起こさせた。  義純に目を向けると、やっぱ同じ事を思い出してたのか、口元に皮肉った笑みを浮かべてる。  俺達以上に大胆な真似する奴がいるとは、思ってもみなかった。 「――ワンちゃん、平気でずぶぬれになってたな」  窓辺に並んでぼそっと呟いたら、義純がクッと短く笑った。 「あそこでシャツを洗い出すとはな」  どうやらあの日の事がはっきりと蘇ったらしい。 「しかも、平気で裸になるし」  唇に笑みを乗せ言った途端、義純の目付きが険しくなった。 「ったく、どこまでも嫌味な野郎だぜ。堂々と脱ぎやがって、マジ腹立つ」  ゴクゴクと中身を飲み干して、空になったコップをグシャッと握り潰す。  そんな義純を横目で見て、益々笑いが込み上げてきた。  こいつのは完全に嫉妬だ。  見た目だけだとホントにスレンダーな体型してるから、涼しげな半袖の制服の下に、あんな鍛え抜かれた筋肉が隠されてたなんて、思いもしなかった。  筋骨隆々って雰囲気じゃなくて、もっと、何ていうか……自然な筋肉の付き方。一切の無駄がない引き締まった美しさ? みたいな感じ。  野球をしていなかった間でも、部員の練習に劣らない程度……それ以上に毎日体力作りに励んでいたに違いない。 『お姉さんに囲まれ楽しく』インストラクターをしている人間も確かにいるけど、彼にとっては欠かす事のできない絶好のトレーニング場だったんだ。  義純にならい、冷えたお茶を流し込む。  ワンちゃんも今頃、延長戦に備えて水分補給してるだろうか。  そんな事を考えていると、がやがやと人のざわめく声が近付いてきた。食堂を出て行ってた野球部員達だ。  それが、いつの間にか倍以上の人数に膨れ上がって戻って来た。  ちょうど部活が終わって帰りかけてた他の部の奴らを誘ったらしい。  男より女の方が圧倒的に多いのは、自分達が楽しむ為……ではなくて、きっとワンちゃん――『成瀬北斗』の名前を出して引っ張ってきたせいだろう。  クーラーの効いた食堂は五時半が過ぎても俺達の貸切になってる。  だから安心して席を立ったんだけど、今まで空いていた席が見る見る埋まっていく。 「一聖、早めに戻った方がよさそうだ」 「ん」  あごをしゃくり促す義純に頷いて、冷茶の横に置いてある水色のゴミ箱に使用済みの紙コップをオーバーハンドで投げかける。その腕が義純に阻まれた。 「しょうもない事に肩使うな」  頭を小突かれて、手の中のゴミと化したコップが奪われていく。  唖然と後姿を見送って、二つの紙の塊がゴミ箱の中に放り込まれるのを、不思議な気分で眺めていた。 「おい、ボケッとしてんじゃねえ。延長戦始まっちまうだろうが」  まだ窓際に突っ立ったままの俺を振り向いて愛想の欠片もない声を掛ける。 「……へいへい」  お座なりな返事を返し、義純の後を追う俺は、案外幸せなのかもしんない。  ―――『ピッチャーのお前は、100%俺のもんだ』  その言葉通り、俺以上に俺の身体を気遣ってくれる。  それがキャッチャーの立場から来る義務感でも、嬉しいもんは嬉しい。 「早く来い」と目で呼ぶ義純の元に、わざとゆっくり歩み寄る。  他人を待ったりなんか絶対しない義純が、俺を待って歩を止めてる。  ささやかな優越感に浸りつつも、頭には別の事が浮上する。  こいつの隣に堂々と立てるのも、あと一年、か。  そう認識するのが、やけに堪えた。
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加