chapter 2

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 心配した通り、五回裏、この回初めて最初からマウンドに立つ門倉に、西城の打線が完全に沈黙してしまった。  五番山崎、六番高木、七番柴田と三者連続で三振を喫し、一塁さえ踏めなかった。 『素晴らしい投球です! 明峰のエース、門倉君。西城のバッターを三者三振に切って取り、早々にベンチに引き上げます』    アナウンサーが興奮気味にまくし立てるのを、案外冷静に聞いていた。  確かに非の打ち所のない投球。  負けず嫌いの俺もその評価に異論なんかない。  それでも、その壁に立ち向かっていけるワンちゃんの力を、俺は信じたい。 『まったくもって付け入る隙のない、完璧なピッチングです』 『甲子園のマウンドを自分のものにしていますね、彼は。思う存分実力を出せてますし、プレッシャーとは無縁の堂々とした投球です』  あらゆる褒め言葉を駆使して門倉を賞賛するアナウンサーとゲストに同調する気にもならず、グラウンド整備に移った画面の中の、ホースから勢いよく噴き出る水を見ていて、不意に思い出した。  そういえばあの日も、義純と水道の水を掛けてじゃれ合ったっけ。  ワンちゃんにピッチングを見せて欲しいと無理を承知で頼んだ、一週間前の夕方。  あの日の事は、これから七十年生きたとしてもその五指に入るだろう、驚きの出来事だった。  まだ優勝の余韻がいたる所に残っていた、夏の高校野球県大会決勝戦の行われた数日後。  一、二年だけの練習を終えた義純が、自宅療養を言い渡された俺に電話してきた後だった。  差し入れをリクエストされ、愛飲しているスポーツドリンクを頼んでその到着を待っていた俺は、義純以外の来訪なんか全然頭になかった。  ドアをノックされ、厭味な真似をする相棒に、俺の行動、静養――ではなく自主トレしてるのをわかっていて、暗に大人しくしろという合図だと解釈し、当て付けるようにものすごく不機嫌な声を出していた。  ドアの向こうにいたのが憧れ続けていたワンちゃん―成瀬北斗―だなんて、思いもせずに――。  思い返してみても赤面モノの『再会』だった。  振り向いてその顔を見た時、とうとう幻覚まで見えはじめたかって、マジ焦った。  で、腹筋用の器具から落っこちたわけだけど、ズキズキと疼く頭で固く目を瞑って思わず祈っちまった。  もうちょっとだけ、このまま勘違いさせてくれっ! て。  義純には悪いと思ったけど、俺の中で二人のポジションは実にはっきり分かれているから、そんな事であいつに必要以上に気を遣ったりしない。  俺を介抱してるのが本物のワンちゃんだと知ってからは、義純の不機嫌丸出しの反応が却って嬉しかったくらいだ。   本当は、義純の代わりなんかワンちゃんでもできない。  ……違うか。  大切なワンちゃんだから、なおさら代わりになんてできるはずない。  甲斐甲斐しく、というより異様に手際よく俺のたんこぶの応急処置をしたワンちゃんに、あの義純が抵抗もせず言われるまま指示に従ってたっけ。  今思い出しても笑える。  夢見心地でされるがままになっていた俺を現実に引き戻したのは、ワンちゃんと一緒にやって来た、中性的な顔立ちの、妙にキレイな奴だった。  男に『キレイ』って言葉を使うのは俺のポリシーに反する。  そんな軟弱そうな奴、近付きたくもないと思ってた。  けどそいつには、なぜか他に当てはまる言葉が思い浮かばなかった。  ただ顔がいい、ってだけの奴なら沢山いる。けどなんか、そいつと向き合ったら思わず姿勢を正したくなるような、俺の周りにはいない独特の雰囲気を持っていて、他人にはほとんど構わない義純ですら、珍しく興味を持った風だった。  そいつが「西城高校二年の吉野瑞希っていいます」と、生真面目に自己紹介したのを聞いて、本当に驚いた。  ワンちゃんを剣道の会場まで駆り立てた友人だと気付いたせいももちろんあるけど、個人戦最有力候補の藤木を準決勝で下して、あっさり優勝した事実を知っていたからだ。  剣道のインハイ予選翌日ー言い換えれば、ワンちゃんを武道館まで送った翌日、義純と興味半分に西城の個人戦出場者の結果を調べた。  んでもって、そいつの残した戦績を知り、すごく興味を持っていた。  ワンちゃんだけじゃなく、そんなすごい奴まで俺の家に来るとは本当に思いもしてなかったから、驚きを通り越してどう接していいものやら途方に暮れるとこだった。  それなのに当人はそんな肩書きなんか少しも感じさせない、屈託のない明るさで俺達にあれこれ訊いてくるし、おまけにワンちゃんとの会話は全然噛み合ってない…っていうかボケまくってて、外見に反する素朴さが妙に面白かった。  それはワンちゃんも同じで、それまで試合でしか顔を合わせてなかったから、ほとんど知らなかった素の表情が色々見えて、思いがけず楽しい時間を共有できた。  初対面のはずの吉野に、自分が優勝できたのは俺がワンちゃんを会場に連れて来てくれたからだと礼を言われ、その上俺の投球が格好いいと頬を染めながら打ち明けられて、内心お世辞か本心か、計りかねてしまった。  全国大会を控え、毎日過酷な稽古をこなしてるはずの吉野が、俺の載った新聞記事をファイリングしてると、本人じゃなくワンちゃんから聞かされた事で、俺の戸惑いはきれいに払拭され、頬の筋肉が緩まないよう体裁を繕うのに必死だった。  そんなさり気ない気遣いを自然にされて居心地の悪いはずがない。  けど打ち解けた雰囲気の中、突然の来訪の理由だけはずっと考え続けていた。  普通、優勝校が出場辞退して、その権利が自分達に転がってきたら、理由なんか関係なしに喜々として準備しないか?   ましてや西城とは延長戦までもつれ込んだ接戦だった。   どっちが代表になったって全然おかしくなかったんだ。  それなのに、権利を譲った理由を聞きたがるワンちゃんの表情が冴えなくて、ちっとも喜んでないとその時ようやく気付いた。  真剣な眼差しで俺を見つめ、 「加納は、何があっても自分から辞退を望んだりしない」  と言い切った。  そうまで言われたら、いい加減な言葉で誤魔化す事もできなくて、どうしようかと困って義純を頼りかけたけど、俺が黙っている事で裏の事情を全て知ってる義純が暴露したりしたら、もっと気まずい事になりかねない。  その心配もあって、しぶしぶ白状した。  自分の肩の状態が、酷く悪い事を。 「実は…さ、甲子園出場は無理だって、準々決勝の翌日、言われた」 「なっ!?……」  告げた途端、端正な顔立ちがさっと曇ってしまった。  県大会で死力を尽くして戦った相手に、そんな事言いたくなかった。  それに、俺が肩を壊すきっかけになったのは、去年のワンちゃんの裏切りとも取れる行為に対する反発が原因だった。  あの日、直接話をして、吉野からもワンちゃんの苦悩を直に教えられて、わだかまりは完全になくなったけど、一年前の俺は一時期と言えどワンちゃんに憎悪すら感じていた。  そんな事情をワンちゃんが知れば、きっと責任を感じて自分を責める。  ワンちゃんの人となりをちょっとだけ知って、そう感じた。  だから余計言いたくなかった。  けど、一旦口に出した言葉をうやむやにするような事も、俺は嫌いだ。  「――『今すぐ治療に専念しろ』だと。『このまま優勝できたとしても、甲子園には行かせられない』って、はっきり言われた」  そこまできっぱり言い切った。  先輩達との溝が益々深まってしまうと知りながら、ワンちゃんへのリベンジを甲子園より優先させてしまった。 「そこまで、悪化してたのか?」 「………」  自分が宣告を受けたかのように沈痛な面持ちで問われ、一言も発せなくなった。  その事実を告げてあんなに辛そうな顔をした奴は、友人にもいなかった。 「今の状態で続投するなら、投手としての復帰は無理だとさ。つまり、甲子園へ行けば、それで一聖の投手生命は終わる」  黙り込んだ俺に代わり義純が珍しく口を挟んだけど、その事実に今度はワンちゃんが絶句してたっけ。  けど、俺の想いは甲子園じゃない、ワンちゃんとの一戦だった。  その事を誰よりも本人に教えておきたいと思ったら、 「……ざけんなってんだ」  って、口が勝手に動いた。「俺の目指してたのは、甲子園なんかじゃねえっつの」  誤解されたくなくて、ワンちゃんには俺の本心を、吉野の疑問に答える形でちゃんと伝えた。  俺達が甲子園に行けない事はもう準決勝の時に決まってた。  だから、ワンちゃんには心置きなく甲子園のグラウンドでプレーして欲しい。そう願っていた。  まさか、直接本人にそんな事言う機会が訪れるとは夢にも思ってなかったけど。  それどころか、俺達の出場辞退の情報が流れた時の、ワンちゃん達の動揺がすごく気になっていた。  せっかく部員全員の力で勝ち取った出場権。  それを俺一人の個人的な理由で辞退するはめになり、あまつさえ健康管理も満足にできないいい加減な奴と思われてやしないか、そればかりが気になって、自分の甘さや不甲斐なさを県予選の日からずっと呪っていた。 「――本当に、いいのか? 俺達が代表で」  戸惑いを隠しもせず正直な胸の内を明かしてくれたワンちゃんに、心からほっとして、少しだけ見栄を張った。 「当たり前。…来年、もう一度あいつと投げ合いたいから、今は治療に専念するよ」  それと、もう一つ。  全てを包み込んでくれそうなワンちゃんの雰囲気に甘えて、叶う事のない願いを――  今はひたすら後悔しまくってる我がままを、口にしていた。      ふっと息を吐いて、画面に目を戻した。  テレビではVTRが流れ、これまでの試合のハイライトが賑やかな解説と共に、全国に向かって発信されている。  ここでテレビを点けた人間は、この点数をどう判断するだろう?    ここまで一時間以上かかった試合の、一握りの断片を効果的に切り取って映していた映像が、今の甲子園球場に切り替わる。  マウンドに撒かれた水の為、湿り気を帯び黒っぽくなった土。  これがまた白っぽく変わり、土埃をおこすのにそう長い時間は必要としないだろう。  日差しは未だ高く、球場全体に降り注いでる。  照り付けるようなきつさはなくなったものの、まだまだ涼しいとは言えない状況だ。  国旗と大会旗が、浜風に一際大きく煽られていた。  六回表、その強風が西城の守備の乱れを誘った。  明峰高校の一番バッターとなった四番打者、室生の打ち上げたボールが空高く舞い上り、セカンドの遥か上空を飛んで行く。  そこからかなり風に流されて、フィールダーの勘が狂った。  強風に飲み込まれたボールが予想以上にレフト寄りに流される。  慌てて修正したけど、あと少しのところで取り損なってしまった。  ファーストランナーになった室生が一塁を回り、二塁ベースに足から滑り込む。  スライディングをアップで映した画像が、その横顔にしたたかな笑みが浮かんだのをしっかり捉えた。  ……こいつ、狙ってやりやがった。  恐らく相手への牽制もあるんだろう。  こんな真似がお前らにできるか? っていう暗黙のプレッシャー。  自分達はこの球場に慣れていると印象付ける、一種の心理戦。 『甲子園の名物、浜風に乗った室生君の打球が、レフトを守る高木君の目測を狂わせました。ノーアウトランナー二塁、後半開始早々、明峰高校再び追加点のチャンスです』 『室生君は上手く当てて上げましたよ。反対に西城は予想以上に強い浜風に、焦りが出たんでしょうか。エラーは付きませんでしたが、守備力の高さを誇る西城にしては珍しく慌てました』  しわの一つもなく綺麗にはためく三つの旗にピントを合わせ、浜風を強調する画像。  それを見て浜名さんの鼻が、フンと小さく鳴った。 「初出場でこの強風をあそこまで読んじまう。やっぱただ者じゃねえわな、こいつら」 「違いない。けどま、取れなかったら意味ねえし」 「お? 言うねぇ今井、ならお前は取れるのか?」 「グラブに当てる自信はある」 「アホか! お手玉してたら二塁打が三塁打になっちまうじゃねえか」 「そ。だから要するにこの場合、二塁打でも仕方ないって事だな。変に引きずらないでさっさと気持ちを切り替える。それが得策」 「何をわかったような事言ってやがる」 「わかり切った事できないのが、このスタジアム。じゃなかったっけか?」 「う、…そうだった」  確かに先輩達の言う通りだ。  ノーアウト二塁で、これから相原に対して二度目の打席になるバッター達。  よほど気を引き締めてかかんないと、西城は流れ持って行かれちまう。    その心配は、即現実のものとなった。  敵がバットを短く持ち、当てる事に専念し始めた。  一打席目の速球を意識しているのは間違いない。  完璧にコントロールされた相原の球が、ことごとくカットされる。  この打者…ってか明峰の四、五番と門倉にはそんな甘っちょろい投球は通用しない。逆に相原のスタミナが奪われるだけだって言ってやりたい。  案の定、十球以上の球数を投げさせられ、カウントは2‐3、明峰有利に。  甲子園レベルのでかい球場、大勢の観客が見つめる中での投球は、普段の試合の三倍は疲れるんだ。  見られる事で調子の上がる選手も確かにいるけど、それだって試合が終われば疲労は一気に押し寄せてくる。  ただ上手く自分の気持ちを乗せているだけ。実はそれが一番疲労を招く原因になると俺は思ってる。  平常心で試合できる選手が一体何人いるだろう。  そうなりたいと常々思ってはいるけど、そんな大人な真似、俺にはまだまだ無理っぽい。  肩で大きく息を吐いた相原がロージンバッグを拾う。  これはいい一呼吸だ。  すかさずキャッチャーが審判にタイムを要請し、相原の元に向かった。  それぞれのポジションに付く選手の顔がそれなりの距離を置いて映される。  野手の表情にさほど焦りは見られない。  西城はまだまだ未知の力を秘めている。  第一、ワンちゃんが全然本気を出してない。  頼むからこんなとこであっさり潰されて消えんじゃないぜ!  そう祈って、早々とホームに戻る山崎の背中を見守った。    試合が再開され、俺の思い描いていた通り、ミットに収まる力強いボールの音が久々に響いた。  そうだ! それでいい。  最悪4ボールになったってかまわない。全力の球を投げ込め、相原!  いつの間にか後輩を応援してるような気分になってる自分に、戸惑いつつも苦笑する。  こいつはいいピッチャーになる。  何ていうか、華がある。  ワンちゃんのプレーと同じ、人を強く惹き付けて離さない、強烈な引力。  この夏の甲子園の後、一年姿を見せなかったとしても、来年、また大会が始まる頃には必ず思い出してもらえる、確かな存在感。  これまでのゲームの中でワンちゃんのそれが発揮できてないのは気になるところだけど、代わりに相原がしっかりその役割を果たしている。  この二人が来年以降の西城を支える主軸になると、試合を見てるほとんどの奴が気付くだろう。  だから、ワンちゃんの実力を、早くみんなに―――。  焦る気持ちと裏腹に、ワンちゃんの活躍の場は未だ訪れる気配すらなかった。  球速152㎞/h。   今大会初めて出た数字に、客席全体が大きく揺らいだ。    現実はシビアだ。  4ボールで一塁への進塁を告げられたバッターにライトスタンドからささやかな拍手が起こり、帽子を取り、自分の仲間へ頭を下げた初々しいピッチャーに、それを凌駕する盛大な拍手が贈られた。
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