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月明かりが、雨に濡れたアスファルトを照らしている。キラキラと輝く夜の街に心が踊る。私の少し先を歩くのは、密かに想いを寄せている彼。
歩くたび、ふわふわと彼の髪がなびく。染めたことのない濡羽色の髪。少し短くなった襟足から顔を覗かせる、首筋の小さなほくろ。真っ直ぐに伸びた背筋。彼を構成するもの全てが愛おしい。水溜りを見つけるたびに、振り向いて言う「気をつけてくださいね」。私だけに向けられた少し高めの声は、いつだって私をときめかせる。
少しして、彼は歩みを止めた。
「ここです」
こんなところに映画館なんて…。
看板の文字は“シネマ”だけが残り、肝心の名前は姿を消している。
彼は重い扉を開ける。「どうぞ」と映画館へ誘う指先は、きちんと揃えられている。丁寧で、誠実で。その手に私の手を重ねることができたら。どんなに幸せだろう。
「ちょっと待っていてください」
そう言うと、彼はチケット売り場へ向かった。歩くたび、ヒールの音が響き、私たちのほかに誰もいないけれど、なんだか申し訳ない気分になる。
「お待たせしました。さぁ、行きましょう」
踏み出したとき、またヒールが大きな音を立てた。ごめんなさい、そう言おうとしたとき、彼はそれを見透かしたように微笑んで言った。
「可愛らしい音ですね」
〈シアター06〉の扉を開けると、スクリーンも、座席もない。代わりに、カウンター席と、たくさんのお酒が並ぶ棚が目に止まる。
「ここ、映画館じゃないんですか?」
私の問いに、彼はふふっと笑うだけだった。どうしよう…バーなんて初めて来た。
薄暗い店内。天井から吊るされた灯りが、テーブルに月を作る。
「マスター、お願いします」
彼は、先程買ったチケットを初老の紳士─マスター─に手渡した。
マスターは、私たちに微笑んで言った。
「少々お待ちください」
「どうぞ、楽しいひとときを」
テーブルの月のちょうど真ん中。置かれたのは、カクテルだ。透明で、綺麗なピンク色をしている。可愛らしくて、それでいて上品で。こんなお酒、初めて。
「乾杯」
「…乾杯」
溢れないように、そっとグラスを触れ合わせる。そして、ひとくち。
程よい甘さとフルーティな香りが口に広がる。「おいしい」、そう言おうとして顔を上げる。
「えっ………」
さっきまでバーにいたのに、目の前には、夕暮れが広がっている。動揺を隠せない私に、彼は大丈夫ですよ、というように微笑んでみせた。夕暮れのオレンジは少しずつ青と混ざっていく。
カクテルグラスを傾けながら、彼は言った。
「このカクテル、“トワイライト・ゾーン”という名前なんです。あなたに似合いそうだと思って」
「私に?」
彼の真っ直ぐな目が私を捉える。
「未知の空間…トワイライト・ゾーンの意味です。初めてなんです。こんなにも、誰かを愛おしいと思い、大切にしたいと思ったのは」
肩と肩が触れる。
「僕は、誰よりもあなたを大切に想っています」
私だって初めてだ。夜の街がキラキラと輝いてみえたのは、きっと月明かりのせいじゃない。あなたとだから。あなただから…。ずっとずっと、表面張力で保ってきた想いが溢れ出す。
「誰よりも、あなたは“特別”で……。私もあなたのことを想っています」
夕暮れのオレンジは、青に溶けた。
「“トワイライト・ゾーン”のカクテル言葉は、“遠慮”です。あなたは周りをよく見る人だから。僕には、遠慮せずに頼ってくれたら嬉しいな」
初めて砕けたその語尾に、ふわっと甘さが香る。
「さ、行きましょうか」
しっかりと揃えられた指先が、私に向けられる。不器用に手を重ねると、そっと。それはそれは丁寧に、彼の手は私の手を包み込んだ。
夜の街は、キラキラと輝いている。
彼はもう、水溜りを見つけても振り向くことはない。その代わり、「気をつけてね」と隣から甘い声がする。私は堪らなくなって歩みを止める。
「どうしたの?」
そう言う彼の胸に飛びつく。彼は一瞬驚いていたが、ふふっと笑って抱きしめ返す。
テーブルに置かれた“トワイライト・ゾーン”のように。月が私たちを照らしている。
ねえ、もっと。甘く溶かして。
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