十二 風のリズム~オリバー・トンプソン~

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「……そう。きっと色々あったのね」  ハーヴィーがなぜ、ほかの人間を信用しないのか。その理由を聞いたわけでもないのに、マーサはすべて理解したような顔でそう言った。 「スノーケルピーはあの男の人が嫌いなの?」 「どうしてわかるんだい?」 「さっきからおしゃべりが聞こえていたもの。ねぇ、あの人、リーさんでしょう?」 「そうだよ。デクスター・リーさん。彼の馬主(ばぬし)なんだ」 「私もあの人は好きじゃないわ。なんていうか――……嫌な感じよね」  そう言って、マーサは顔を(ゆが)めて、スノーケルピーにウインクをする。それからもう一度、眉間(みけん)にしわを寄せて見せた。たぶん、あのリーさんの堅い表情の真似をしているのだ。僕は笑みを(こぼ)し、「まぁね」と言って肩をすくめる。やはり、この業界でリーさんの評判はあまりよくないようだ。 「リーさんのことは好きじゃないけど、あなたたちのことは好きだから、応援するわ」 「ありがとう。僕も君たちの健闘を祈ってるよ」 「ありがとう。お互い頑張りましょ。じゃあね」  そう言って、マーサとウェンズデイは去っていく。僕は彼女たちを見送り、ハーヴィーに言った。 「あの子、僕よりずっと年下みたいだった。あんな子も試合に出るんだね」  ――彼女はたぶん、実力者だよ。ウェンズデイが言ってた。 「ウェンズデイ? あの馬と話したの?」  ――うん。今日の優勝を飾るのは間違いなく彼女だってさ。悪いけど、格が違うって。  ハーヴィーは面白くなさそうにそう言った。どうやらあのウェンズデイという馬は、かなり気の強い馬だったようだ。もっともマーサも同様ではあった。パートナーという関係性ゆえか、彼女たちはきっと似た者同士なのだろう。 「ハーヴィー、気にしないんだよ。僕たちは僕たちのできる限りのことをすればいいんだから」  ――わかってるさ。  首のあたりをぽんぽん、と撫でてやって――ふと、ライルさんのいる方に目をやる。いつの間にか、リーさんはいなくなっていて、そこには代わりにトーマスさんの姿があった。しかし、彼は別の男性と話している。そこにマーサが近づいていく。どうやら、トーマスさんに挨拶(あいさつ)をしているようだ。 「トーマスさん、あの子を知ってるのかな」  ――さあね。  僕は(まゆ)を上げる。ハーヴィーはあのマーサという子の乗るウェンズデイに挑戦的な態度を取られたので、少し()ねている。仕方なく、僕はハーヴィーに再び(かけ)(あし)を出すように指示を出して、ウォームアップを再開し、三十分ほどでハーヴィーとともに、ライルさんたちのそばへ戻った。 「やぁ、お疲れ様。調子はよさそうだね」 「はい。トーマスさん、さっき挨拶(あいさつ)してた女の子、知ってる子ですか?」 「あぁ、彼女は友人の娘さんだよ」 「ご友人の……」 「友人はグラスミアの方で牧場をやってるんだ。引退した競走馬の面倒を見たり、羊を飼ってる。大牧場でね、あの子はそこの娘さんなんだよ。オリバー、彼女を知ってるのかい?」 「あぁ、いえ……。ちょっとさっき話をしたので……」  グラスミアは、ウィンダミアの近くにある湖の名前であり、そこに隣接する村の名前でもあった。ウィンダミア湖よりは少し小さい湖だが、その自然の美しさには定評があり、ウィンダミアにも引けを取らない。緑や花々が鮮やかな春や夏は、特に多くの観光客がやって来る。  どうやらあのマーサという子は、その村にある大牧場のオーナーの娘さんだったらしい。しかも、トーマスさんの話によると、彼女は去年、この大会で準優勝を果たしたという。つまり、優勝候補であるわけだ。 「すごい子だったんだ……」 「幼いころから馬が好きでね。馬のために生きているような子だ。しかし、その子に声をかけられたなんて、ひょっとしたら、オリバーは見初(みそ)められたのかな」  トーマスさんがそう言って笑みを浮かべる。僕は慌ててかぶりを振ったが、彼は「きっと彼女は君に素質を感じたのさ」と嬉しそうに言った。  それからほどなくして、会場には一般客が集まり始めた。屋敷近くはどこもかしこも人でいっぱいになり、白いテントが連なる出店付近は、特に(にぎ)わいを見せた。人に溢れた会場内はまるでお祭りのような雰囲気だ。そんな中、開会式が(おこな)われる。僕とハーヴィーの出走時間は刻々と(せま)っていた。  クロスカントリーは、数十秒ごとに一組ずつ出走すると決まっている。僕は十二番だ。比較的、順番が前半だったのは幸いだった。後半までこの緊張感に()えるのはつらい。十分、二十分――と時間は過ぎ、試合開始の笛が鳴る。たった今、一番最初の出走者が出たようだ。  ――ハーヴィー。順番まで、もう少しだ……。  ――うん。緊張してる?  ――少しね。  ハーヴィーと心の声で会話ができることを、この時ほど頼りにしたことはなかったかもしれない。彼がいるだけで、僕は常に孤独を感じなかった。そうして、彼と言葉を交わすだけで、強くなれる気がした。  もう間もなく、係員から声がかけられるだろう。その時を、僕はハーヴィーとともにじっと待つ。そばにはトーマスさんが付き添っていてくれて、僕の緊張をほぐそうと色々な話をしてくれていた。ただ申し訳ないことに、内容は頭にほとんど入ってこない。 「オリバー! オリバー・トンプソンとスノーケルピー!」 「はい!」 「こちらへ」  さぁ、いよいよだ。スタート地点は屋敷のすぐそばにあった。多くの観戦客がそこにいて、人馬(じんば)が走り出す瞬間を待っている。周囲には花壇が広がっている。色鮮やかで美しい道だが、その途中には当然、障害が設置されている。  植え込みで作られた物から、丸太を組み合わせた物まで、種類は様々だが、どれもちょっと足を引っかけでもすれば、馬が転んでケガをしてしまいそうな、危険な物ばかりだ。しかも、ここに見えているものは、恐らくすべてが難易度の低いもの。さらに高難度のものは、その先にあって、今か、今かと人馬(じんば)を待っているのだろう。  大丈夫だ……。僕にはハーヴィーがついてる。  そう思った時だった。 「オリバー、頑張れ!」  懐かしい声が――聞こえた気がした。ハッとして声のした方を見る。だが、見渡す限り、観戦客の人の顔。人の群れだ。その多さに目が(くら)みそうになる。僕はすぐにかぶりを振った。  おじいちゃんの声……だった気がしたけど……。  きっと気のせいだろう。祖父母とは、大会の直前まで手紙でやり取りをし、電話でも話をしている。だが、彼らは応援に来るとは話していなかった。ロンドンからだと、トラウトベックはかなり距離があるので控えたのかもしれない。老齢のふたりにとって、遠方への旅は(こく)だ。それをわかっている僕も、彼らに見にきてほしいとは言わなかったし、手紙で「頑張れ」と書かれているだけで、本当に十分だった。  きっと、おじいちゃんとおばあちゃんは、ロンドンで祈っててくれる。天国の父さんや、母さんや、弟のエリオットも……。  次の瞬間――。ピーッ! と音が鳴る。僕はハッとして手綱(たづな)を強く握った。  ――ハーヴィー、行こう!  スタートの笛だ。僕は心の中でハーヴィーに呼びかける。直後、ハーヴィーはそれに(こた)えるように芝を蹴り、勢いよく駆け出した。出だしは悪くない。 「いい感じだ!」  始めは平坦な芝のコースが続く。ハーヴィーは全速力で駆け、まず、植木で作られた障害を越えた。さらにその先の丸太の障害を越え、次の障害へ走る。どうということはない。これくらいの障害はもう散々、練習してきたのだ。道の先は林の中へ続いていく。 「ハーヴィー、道が細くなってる……」  昨夜のミーティングで、記憶したコースの全貌(ぜんぼう)を思い出す。僕とハーヴィーが行くのはダイレクトルートだ。林の先は一本道。しかし、その先は想像よりもはるかに、とても細くなっている。しかも、その先にも当然のごとく障害が設置されているのかと思うと、このまま全速力で駆けていくのには不安になった。ところが、不意にハーヴィーの声が脳内に響く。  ――オリバー、このまま行こう! ぼくを信じて!  ドキドキしながら手綱(たづな)を握り、しっかりと頷いた。ハーヴィーはスピードを落とさずに、そのまま林の中へ入っていく。歓声は遠のいていき、人の姿はまばらになった。  木々の間をすり抜け、ただ前だけを見て、僕とハーヴィーは林の中を駆ける。荒いハーヴィーの呼吸が聞こえて、僕は自然とそのリズムに自分の呼吸を合わせていく。ふと前方を見れば、障害が見えた。脇へ()けるすき間はあるが、僕とハーヴィーにある選択肢はひとつだ。 「ハーヴィー!」  ハーヴィーの名前を呼ぶ。それが合図だと、彼には自然と伝わる。僕にはそれがわかっている。さっきよりも明らかに高い障害が目の前に(せま)り、僕はその直前でやや前方へ体を傾(かたむ)けながら、尻を(くら)から浮かせた。その瞬間――重力は軽くなる。
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