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もう少しだけ、私の話をしてもいいかな。
8階から地面へ体が叩きつけられる間だけ。誰かに話を聞いてほしい。セルフ走馬灯。どれくらいの時間があるのかはわからないけど、全てがスローモーションに見える。今のこの瞬間は。
どこから話そうか。やっぱり走馬灯だから順を追って説明すべきかな。
あれは小学生の時。プールの時間。その日の私は微熱があって、でも学校を休むほどのことでもなく、体育の授業を見学していた。
塩素の香り。冷たい水に興奮する同級生たち。
眩しい太陽を遮る屋根がある見学席は、なかなかに快適だった。
特にすることもないので、ぼんやりとクラスメイトを眺める。
このクラスで一番顔が整っているのは秋山くんだと思う。目立つ子じゃないし、いつも下ばかり向いているから誰も気づいていないけど。
運動できる田中くんを、みんなはかっこいいって言うけれど、顔については、野生の猿によく似ていると思う。
それに引き換え、秋山くんは鼻筋がすっと通っていて色白で、少し王子様ぽい顔だ。運動も苦手で、勉強もあんまり得意じゃなくて、自信なさそうにうつむいてばかりいるけど。今だって、みんなから少し離れたところで気配を消して、こちらに向かってぎこちなく泳いでいる。
ふいに、秋山くんの頭が沈んだ。
見えなくなった。
と思ったら、水面に苦しそうな秋山くんが顔をだした。
必死に息を吸おうとしているようだ。
溺れている。
そのことに気づいたのは私だけみたい。
どうしよう。誰かに言わないと。
不意に、秋山くんと目があったような気がした。
助けて、と訴えるような目を見たような気がした。
それを見て私は動けなくなった。
いつも綺麗な顔をしている秋山くん。今は必死に生きようと足掻いている秋山くん。
私が誰にも言わなければ、彼はこのまま死んでしまうかもしれない。
誰かの命を左右する力を自分が握っている。
そのことに、私はとても興奮していた。
顔を歪めて沈んでいく姿をいつまでも眺めていたかった。
そのまま、秋山くんは水中に消えていった。
誰も気づかなかった。
私も誰にも知らせなかった。
これが、間接的ではあるけれど、私が犯した初めての人殺しだった。
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