夜に咲く

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冷たい風が吹き荒ぶ、寒い季節が過ぎ去った。 やって来たのは花を咲かせる温かい風と、包み込むような太陽の光。 沈むのが日に日に遅くなる太陽と、代わりに短くなる濃紺の時間。 夜の時間を押し退けてやって来る真昼間の時間は人々にとってはありがたいものかも知れないけれど…俺にとっては。 いや、俺たちにとってはあまり喜べるものではないかも知れない。 「…今日あったかいな」 陽の光を遮るように手を翳すと、背後から声がした。聞き慣れない高めの声が、嬉しそうな色を乗せてすぐ後ろでさえずっている。 「あの、写真いいですか?」 「芸能人ですか?というか若いね、この辺の人?大学生かな」 「………」 またかぁ。 俺は少し溜め息を吐いて、その声の方へと近づいた。 腕を伸ばして色素の薄い手を取ると、分かっていたかのようにそいつは振り向く。 「おいお前、探したんだぞ!こんなところにいたのか?あ、すみません、こいつと急ぎの用があるので俺たちは失礼します!」 「え、あ、ちょっと!」 「行っちゃったぁ…。足はっや」 早口で捲し立て、とにかくその場から離れるようにと早歩きで立ち去った。もういいだろうというところでピタリと立ち止まると、俺のすぐ後ろで同じように立ち止まる気配がする。 何かを言いたげに、俺の手を握る指の力がきゅっと強くなった気がした。 振り返ると、俺に手を繋がれるがままのその男は申し訳なさそうに俺を見ていた。 こいつの方がずっと背が高いのに俺より小さく見えてしまって、何だか変な感じだ。 実際には見下ろされているのに、怒られた飼い犬に上目遣いされているようなおかしな気分。 「別に怒ってないよ。目を離した俺も悪かったし」 「………」 繋いでいない方の手を差し出すと、彼はつられるように頭を下げた。撫でやすい。もうこれは癖になっちゃってるなぁ。 指の間を通る髪は黒髪で、さらさらと陽の光を跳ね返しては滑り落ちていく。 こちらを見上げた瞳は黄色味を帯びていて、奥できらりと宝石みたいに光る。長い睫毛が守るその宝石はやっぱり窺うように俺の表情を見ていて、あまりに健気なそのカオに少し笑ってしまった。 「だから怒ってないってば、ナズナ」 ふっと笑ってみせると、春の花のような瞳がふわりと安堵の色を見せて細められる。 あぁ、何でこんなカオをするんだ。 何で、手を離してくんないんだ。 まじまじと見つめていると、薄い桜色が形を変えていった。 あ、り、が、と、う…。 「ううん。別に、俺がしたくてしてるだけだから」 撫でていた手を離すと、彼はすっと背を伸ばした。でこぼこな視線は合わさったまま、さっき感謝の意を伝えた桜色が今度はふっと緩く弧を描く。 というかいつまで手を繋いでるんだろう。 子供でもあるまいに。 「ナズナ?手、もう離してくんない?」 「………」 一応頼んでみるも、案の定返ってきた返事はふるふると首を振る柔らかな拒絶だけ。 彼が首を振るとさらさらの髪まで一緒に揺れて頬にかかる。再び手を伸ばしそれをそうっと除けてやると、懐いた犬みたいに頬を擦り寄せられた。 やっぱり今日はあったかい。 ちょっとあったか過ぎるくらいだと思う。 俺のちょっと不思議な友達。 彼は話すことができない。 耳は聴こえるらしい。ただ声が、何故だか声が出せないのだという。 それも不思議なことに、太陽が出ている間だけ。少し前、おれは太陽とちょっと仲が悪いんだなんて、自嘲するように溢していたな。 もうすぐ日が沈む。 暖かな光が眠り、優しい静寂が世界を包む時間がやってくる。 「助けてもらったのはありがたいけど、ユウガの演技はいつまで経っても進歩しないね」 「…うるさいなぁ」 昼間はあんなに可愛らしかったのに。 口を開き、言葉を発するとこの男は結構な毒舌家になると知ったのはつい最近のこと。 太陽が沈むとナズナは声を取り戻す。 夜になると昼間の様子が嘘のように、心地好い美声がほっそりとした喉から発せられるようになるのだ。 なら雨の日や曇りの日はというと、夜ほどではないが話すことは出来るみたいだ。 声を発することは出来なくはないが、何とか絞り出している、という感じがする。天気にもよるみたいだけど。 訊いてみるとやっぱりエネルギーを使うんだそうで、声は出せてもあまり話したくはないのだと言っていた。 太陽が顔を出さない日であっても、昼間は完全に話せる訳ではないらしい。 だから、本当にナズナの声が戻るのは太陽が地球の裏側へ行ってしまった夜、暗闇が訪れる時間帯。 太陽が完全に地平線の向こうへ行ってしまってから、彼は声を取り戻すのだ。 どこのおとぎ話だろうと初めの頃は思った。 正直すぐには信じられなかったし、嘘を吐かれてるんじゃないかと思ったこともある…けど。 今は嘘じゃないって分かる。 長年の勘で…と言いたいところだけど、こいつとの付き合いは実はまだそんなに長くないんだよなぁ。 俺とナズナが出逢ったのは結構最近。 ほんの数ヶ月前、人通りの多い駅で、今日みたいに話しかけられているナズナを見かけた。 初めはカッコいい人がナンパされてるのかなぁくらいにしか思わなかったけれど、一瞬、ほんの一瞬だけ合わさった視線が俺を捕らえて…気づけば身体が動き出していた。 困惑したようなあの瞳に、何だか助けを求められているような気がして…。 そうして今日みたいに知り合いの振りをしてその場所から引っ張り出し、たまたま同じ大学だったことが後で判明したりして。 それからいつの間にか一緒に居ることが多くなって、ナズナはうちに泊まりに来ることが多くなった。 俺がたまたまこいつの秘密を知ってしまったから、気兼ねなく話せる友達が欲しかったんだろうか。 でも助けたのは昼間のことだし、その後夜に会おうと言ってきたのはこいつの方からで…。 夜にわざわざ会うこともなければ、自分の秘密を知られることもなかっただろうに。 いや、会ったその日に自分から打ち明けてくれたんだ。何でかは分かんないけど…。 夜にしか話せない不思議な王子様。 そんな彼の秘密を知っているのは彼の家族と俺たち二人だけ。らしい。 友達は?って訊いたことあるけど、居ないとたった一言。それ以上は踏み込めなくて、俺はふうんと相槌を返すことしか出来なかった。 そしてその王子様はというと、今は俺の目の前で買ってきたコンビニスイーツを漁っている。 コーヒーゼリーは俺の分として取っておいて欲しい。じゃなくて。 「あのさナズナ…。お前って一応自分の家あるだろ?こんなに空けてて大丈夫なの?ここ一週間はずっと俺ん家来てるし…」 「鍵は閉めてるよ」 「いやそれでも、空き巣とか入るかもしんないじゃん」 「あぁ…。帰ったら知らない女が居たことはあるな」 「えっ!?何それめちゃくちゃ怖い!!」 「うん、こわかったしびっくりした」 「そのトーンで言われても説得力無いんだよなぁ…」 話すようになってから気づいたことなんだが、こいつは結構飄々とした性格らしい。物怖じしないというか、何か起きても堂々としているというか。 なら、昼間のアレは何なんだろう。 助けられて安堵したり、怒られているようにシュンとして見えたり…。 こいつがまるで子犬みたいに見えてしまう現象は、俺の錯覚なんだろうか。 昼と夜とじゃ、別人とまではいかないけど結構違う気がする。 俺がうーむと思考を明後日の方向に飛ばしていると、少し遠慮するような声が降ってきた。 「…ねぇ」 「なぁに」 やっぱりどんな声音でも、ナズナの声は聴き心地が好いと思ってしまう。 「ユウガは、いや?」 「うん?」 「おれに泊まりに来られるの、迷惑?」 「いや、俺は全然構わないんだけど。…狭くない?」 「今さら」 「…クソ失礼」 そりゃあ一人分が生活することを想定した、一人暮らし用の部屋だもん。 駅からちょっと距離があるから普通の部屋より幾分かは広めかもしんないけど、それでも大学生の一人暮らしの部屋には変わりない。 客用の布団なんてこいつが泊まりに来るようになってから初めて買ったし、カップや歯ブラシなんかも最初は俺の分しかなかった。 それがいつしか日常のものもこいつの分が増えてきて、同じ部屋で寝ることにも違和感なんてなくなっていた。それでも…。 寝る時は長い脚を窮屈そうに折り畳んでるし、毎日俺ばっかりベッドを使うのも申し訳なくなってきてしまったりして…。 俺の部屋なのに。何で。 という訳でこないだ、寝る時にベッドじゃなくていいのって話をしたら、何故か今では朝起きたら背中にこいつがくっついてることが多くなった。 だから何で。 安物のシングルベッドに男子大学生二人。 一方は背が高く体格の良い男と、もう一方は標準的とはいえ一応男な俺。無理があると思う。 起きたら半分落ちそうになってた時もあるし、それで俺が客用の布団使ったとしてもやっぱり朝には背中に温もりを感じるし…。 だから本当に何で。 人に飢えてるのだろうか。何というか、そこまで踏み込んでいいのか分からない。 それにしても俺がこんなにも心理的に遠慮してるのに、物理的には相変わらず距離が近い。 何なの本当。嫌じゃないけどね、別に。 「顔見てるだけでなに考えてるか大体わかる。ユウガは隠しごとできないね」 「ソウデスネ…」 「ほれ、ココア」 「ありがと…。あれ、コレいつ買った?」 「ココアって甘過ぎるやつたまーにあるけど、このメーカーのは信頼できるからすき」 「なぁ聞けよ、これお前の?というか、いつまで俺ん家居るの」 「ねー」 「いや聞けよ」 「…引き払った」 「え」 「正確には、解約?した。来月には家具も全部出さなきゃ」 「えっ、引っ越すの?俺聞いてないよっ!どこにっ!!?」 突然の告白にびっくりして口をパクパクさせる俺をじいっと見つめながら、ナズナは机をトントンと軽く叩いて見せた。細長い指が、机を傷つけないよう優しく突つく。 でも、そのジェスチャーの意味は…? 「いや、えっと…まさか」 「ここ」 「え、このマンションって空き部屋あったっけ?」 「んーん、ないよ」 「えと、じゃあ…」 「ここ。この部屋」 「………?」 「………ふふっ」 しばらく思考が停止してしまった。 何て?ここってどこ? 俺と同じマンションってこと? でも空き部屋は無いって言った。言ったよな? じゃあどこに…? 恐る恐る黄色の瞳を覗いてみると、奥で意地悪そうに何かが光った。まさか、いやまさか。 「俺追い出されるっ!?」 「なぁんでそうなるかなぁ」 何事もないようにココアに口をつけながら、ナズナは満足そうに微笑んでいる。 理解が追いついてないのは俺だけか。 あ!もしかして。 「ルームシェアか!」 「声がでかい。夜ですよぅ」 「いや、ルームシェアすんのは別にいいんだけどさ、その、相談くらいしてくれてもよくない?」 「結果は変わんないから、いいかなって」 マ、マイペースゥ…。 「俺の意思は」 「嫌じゃないってさっき聞いたし」 「事後報告!」 「やじゃないんでしょ?」 「そうだけどぉ…。もし嫌だって言ってたらどうしてたの」 「うーん…。公園とか?」 「選択肢が極端!」 「だから夜ですよって」 何てこった…。 この美しい男はどこまでも奔放で、人を振り回すのが上手いみたいだ。 「というわけで、今日からよろしくお願いしまぁす」 「急展開」 ペコリと丁寧に頭を下げられ、つられて俺もお辞儀する。そのすぐ後に、何だかおかしくなってクスッと吹き出してしまった。 ナズナはナズナで、それを見て安堵したような、嬉しそうな笑みを隠しもしないでいる。 いつも見てるのに、何か変なの。 泊まりに来るのと一緒に暮らすのとじゃあ何か変わるのかな。 まぁでも、今までもほぼ毎日のように泊まりに来てたから別にそんなに変わることはない…かな。多分。
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