夜の七姉妹通りで

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 胸につかえるこの感情を、頭で考えないことによってどうにか押さえこんだ。だがそれは未だに、喘ぐかのように暴れていて、隙を見せれば、簡単に俺の心を掴んでしまう。一体どうすれば、このどろどろとした厄介なものを静かにさせることができるのだろうか。今の俺には解決策を見つけられそうにない。  俺は攻め込まれている。守るのに精一杯で、自分の中の迷路を逃げ回っている。  後ろから、誰かが早足でかけている音が聞こえる。近くを走る車の音よりも真夜中に響くそれは、俺のよく知っている、もっとよく知りたいと思っている人のものだ。  ひんやりとした空気が、地面に漂っている。それに外灯の光が当たり、水分と街の匂いが世界に立ちこめている。  そのとき俺は、迷路の中で行き止まりを選んでしまっていた。後ろからは想像することもできない、重量を持ったものが迫っている。そして、俺を包み込み――。  俺の背中に柔らかく小さな手が乗せられた。  俺は歩みを止め、下を向いた。右目から一粒、そして左目から一粒、透明な球滴が地面へと吸い込まれていく。 「大丈夫?」彼女は背中に置いていた手を俺の左肩に持っていった。  俺は何も言わず、大きなすり鉢状の大穴をゆっくりと滑り落ちていた。  彼女は泣いている俺の目をトレーナーの袖を引っぱって拭いた。 「どうしても、ダ、メなんだ」俺は感情に噛みつかれながら言った。「俺は」 「うん」  彼女は俺の気持ちを分かっているのかそう言った。でも、俺も分かっている。俺も彼女の気持ちを分かっている。  大学で知り合った人の部屋に、俺たちはいた。でも、俺はどうにも堪らなくなって逃げ出してきてしまった。  彼女は再度俺の目じりを拭いた。湿り気のある袖を肌に感じる。俺は一体、彼女に何をさせているのだろうか。 「もど、ったほうがいい、よ」  嘘ではない。君が世界で一番幸せになるべきだと、俺は本気で思っている。でも、同時に、君を手放してしまうのが、とても悔しい。俺はそれを近くで見たくない。  俺は額を触った。冷たい汗がそこから出ていた。  俺は君が好きだ。知っているだろう。だから俺は君が一番大切だ。君を世界の中心にして考えている。本当だ。でも、君は違う。君は俺のことなんか……違う。どうでもいいだなんて思っていない。だから追いかけてきてくれたんだ。でも、君のもう一方の手は、あの部屋に繋がれている。それが俺にははっきりと見える。 「大丈夫だから」俺は悪びれもせずじゃれてくる感情を精一杯の力で抑えて言った。「俺は大丈夫」  俺は彼女を見た。茶色に染めた真っすぐの髪が視界に入ってくる。長いまつげ、右まぶたの隅にある小さなほくろ、きちんと整えられ、描かれたまゆげ、すっと伸び、ほんの少しだけ上を向いた鼻。薄めの唇、美しい歯並び。  俺の幸せは全部、あの人のものだ。俺のものにはならない。 「帰るよ」俺はそう言い、精一杯の勇気で彼女の頭をぽんと触った。そして彼女たちに背を向け、歩き始めた。  俺が数十メートル進むと、何かがアスファルトを擦る音が聞こえた。俺はたまらず目を閉じ、涙を拭った。ふと彼女の優しさを思い出し、さらに服を濡らした。そして自分の傲慢さ、世界の不条理、幸せそのもの、その全てを乱暴に扱いたくなった。  俺は七姉妹通りの交差で立ち止まり、横断歩道のボタンを押した。数十秒待つと、信号が青になった。  このままベッドに横になって、永遠に起きなければどんなに安らかになれるのだろうかと考えながら、地面に置かれた白く光る梯子の上を歩いた。  俺は帰宅への一歩を進めながら右を見た。四車線の道路には、路肩に停車しているタクシー以外、何も通っていなかった。  俺は次の一歩を出し、左を見た。太陽より汚く、炎より心のない人口の光が、放射状になって迫ってきた。その光で見えたものは、信号柱の下に置かれた花束とお菓子だった。  たしか先月――。  私は数メートル進んだ後、振り返った。「大丈夫」と言った彼の背中がどんどん小さくなっていく。でも、私には彼の気持ちに応えることができない。私も彼も、誰にとっても、自分自身を裏切ることはできない。でも、私は彼の幸せを祈る。彼が将来、私以上に幸せになってくれたらなと思う。  冷たく濡れたトレーナーの袖を、もう一方の手で握りながら、私はあの人の部屋へと戻った。夜はこんなにも寂しいものだっただろうかと思いながら、私はなぜか安堵していた。
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