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眠ることが怖い、と彼女は呟いた。
街の灯りがようやく静まった午前3時のビルの屋上に、風だけが撫ぜて声をさらっていく。ぼくと彼女は少し離れて座っていて、彼女の声はかすかな音でしか届かなかったが、そこに小さな怯えを聴き取った。
この世界の何もかもが、彼女を蝕んでいく。
日光は透くような青白い肌を灼き、
多くの人の声は繊細な脳髄を突き刺し、
暗闇は真っ白なこころを曇らせ、
眠れば夢は記憶を食い破り、
起きれば筋肉は己の肉体を瓦解させようとする。
文字通り寝ても覚めても地獄なのだという。
それでも、彼女は眠ることだけに怯えた。どんな痛みも耐え忍んだ彼女が唯一怯えた。
「当然、眠らなければ心身共に尽き果てる日が来るでしょう。その時が近いこともわかっている……そのうえで、眠ることが怖い。眠るのをやめたの」
風がやんでしまったのに、絞り出すようなかすれた声だった。
「あと2時間半。そうしたら陽が昇る。それまでお話をしてほしい―シェヘラザードが紡いだように、少しずつ……」
ここにいるぼくは、彼女の願いを退けることができない。結んだように押し黙っていた声帯を振るわせて、ぼくは物語を少しずつ紡ぎ始めた。
ひとりの”罪人のもとに生まれた少女”が、痛みすら噛みしめて光の差す道を駆け抜けていく物語を。
5時半、朝日が昇り始めた。
動き始めた街の一角、寂れたビルの屋上に患者衣の少女が息絶えていた。そして影になるような駐車場の奥には、少年がひとり落ちていた。
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