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吉原と花魁と私と貴方
私は怠そうに煙管を吸い、土砂降りの外を眺めていた。
私の名前は朝霧太夫。名前と言っても無論本名ではない。この遊郭での名前だ。そして好きでこんな所で花魁なんてしている訳ではない。
私は貧しい家に生まれた、だがそれも今では幸せだったと思う。そんな中、私の父親は私を売ったのだ。まだ幼かった私をこの遊郭の世界へお金と交換に引き渡した。捨てた。どう表現しようとこの父親は史上最低の父親だろう。
母親が出て行って全ては変わった。父は荒れ果て、酒に溺れ、金に困って売った。いまあの父親がどうしているのかは興味はない。別にどこかでのたれ死んでいてもどうも思わない。
この柵の中で飼われている私はまさしく奴隷みたいなもんだろう。私は格式が高い高級遊女として、『太夫』の名前を貰った。それを羨む人もいるし、憧れる人もいる。正直理解出来ない。だってこんな生活は私にとっては奴隷みたいな物だから。自由なんてないのだから。
だから遊女に憧れを抱く女性には『やめておけ』と言いたい。遊女に恋心を頂く男性にも『やめておけ』と言いたい。
「よぉ、今日はお客さん来ないからヒマだね。朝霧太夫」
そう言って現れたのがここで働く若い衆の幾蔵だ。
「今日も来たでありんすか、お主は。あと太夫はいらないでありんす」
「おいおい、オレはここで働いているんだぜ? いいじゃないか、顔くらい見に来たって」
一応私はこの遊郭でも格式は高く、同じ花魁でもそうそう話しかけてこない。若い衆の中では彼くらいだろう、私に話しかけてくるのは。
「なんかヒマそうにしてるんじゃないかなと、思って来てみたらこの有様だな。下で面白そうなことしてるけど、どうだ朝霧?」
「わっちは興味がないでありんす。お主が行ってくればよかろう」
「なんだ。そうか、ならオレもここで一服でもしようかな」
そう言って私の部屋に座り煙管を取り出していた。コイツは本当に変わった奴だ。自分の身分や格式を理解しているのだろうか。ただそんな彼をそこまで嫌いにはなれなかった。というのも、私は格式が高い遊女かもしれないが、所詮は売られた人間。本来の格式は奴隷みたいなもんなのだ。だからこうやって同等に接する彼は嫌いではなかった。
「暇つぶしでありんす」
「えっ、なんか言った?」
「わっちは今暇なのでありんす。どうでありんすか、1局碁でもしておくんなんし」
「おっ、碁か。いいぞ」
幾蔵は部屋の隅にある碁盤と碁石を持ってきた。客先が悪い時にはこうして碁をよく打っていた。
「互先でいいか?」
「ほんと、主は塩次郎でありんすね」
知らない人も多いと思うが、塩次郎とはうぬぼれが強い人という意味だ。
確かに幾蔵は碁は強いが、私との勝負は大体互角だ。それをハンデ無しの互先でいいかと聞くことは言語道断だ。私は接待されたいわけではない、ただの暇つぶしに碁を本気で打ちたいのだ。
「冗談だって。なら、コミ有りな。ほら始めるぞ」
私達は土砂降りの雨音が鳴り響く部屋の中で、静かに碁を打ち合った。ぱち、ぱちと石を盤に置く度に鳴る音が私は好きだった。余計な事も不純な事も考えずにいられるこの時間が好きだった。
「なぁ、今日もいるな。あの女性」
幾蔵は外を見ながらそう言った。私も外を見ると見窄らしい女性が傘を差しながら立っていた。
「そうでありんすね」
そう言って適当に流した。別に珍しい事ではない。お金がない人にとっては花魁は憧れの存在と感じる人も多い。男性も女性も、憧れる人は一定数いるのだ。
「男性が来るのはわかるが、女性が毎日来るのは珍しいな」
まぁ、確かにそうかもしれない。ここ最近毎日の様にここに来ている。なにをする訳でもなく、ただ立ち尽くしている。非常に珍しい光景ではあった。
「そんな事はどうでもいいでありんす。お主、この状況見なんし」
私は碁盤に幾蔵の急所へと石を置いた。
「あっ、ちょっと、待った!」
「待ったはなしでありんす。これでおさればえ」
そんな嫌みをいい放ち、私は対局に勝利した。
「今日は楽しかったよ。また来るから朝霧太夫」
「あい。おさらばえ」
私は丁寧にお辞儀をし、おゆかり様を見送った。おゆかり様とは常連客のことだ。
私はお客様が見えなくなるまでお辞儀をし、頭を上げるとポツリ、ポツリ、と小雨が降ってきた。
「今日もまた雨でありんすか」
私は暗い空を見上げそんな事を呟いた。
それはまるで今の私の気持ちを表しているみたいだった。一夜だけの愛人になる。それがどれほど切なく、寂しいものなのか。それは幾度男性と戯れようが、幾度抱かれようが、いつも私の気持ちは空しさしかなかった。
この雨はそんな私の気持ちの悲しみを表しているのか、それとも浄化してくれるものなのかは、わからなかった。
「濡れますよ、朝霧太夫。ささ、中へお入り下さい」
牛太郎の物がそう言った。
私は店の中へと戻ろうとすると、
「あの! すいません!」
と、いつも見に来ていた見窄らしい女性が言い寄ってきた。
だが、牛太郎の物が制し
「おい! このお方に近づくな! 身の程をわきまえろ!」
そう怒鳴って乱暴にその女性を投げ捨てた。
「さっ、朝霧太夫。こんな奴放っておいて戻りましょう」
中へ入り、店の扉が閉まる。その直前倒れた女性は涙を浮かべながらこう叫んだ。
「待って! 貴方は澪なんでしょ!」
その言葉に私は急いで振り向いたが扉は完全に閉まっていた。
廊下には遊女の甘い声が漏れ出していた。その聞き慣れた喘ぎ声にも動じず、私は2階の部屋へと戻り、煙管を吸いながら一人で悶々としていた。外は見たくもなく、障子は閉め切っていた。
トントンとノックの音が聞こえ
「入るぞ、朝霧太夫」
そう言って幾蔵が入って来た。
「何の用でありんすか。今日はおゆかり様も多いのでありんしょ。主も仕事しなんし」
「休憩時間だよ。休憩も必要だろ?」
幾蔵は煙管に火を付け一服し始めた。
「聞いたぞ。さっきの話」
「だから、なんなんでありんすか」
「あの人は、お前の母親じゃないのか?」
いつもヘラヘラとしている幾蔵が真剣な表情でそう聞いてきた。
澪、それは私の本名だ。芸名ではない。ただその名前は疾うの昔に捨てた名前でもある。
「そんな昔の事は覚えてないでありんす。私の名前は朝霧太夫。澪ではござりんせん」
「それでいいのか、お前は」
「いいも悪いも、事実でありんす。わっちは売られた身。母は私を捨てて何処かに消え、残された父に売られた身でありんす。それが事実でありんす」
そう言うと幾蔵は少し悲しげな感じで、遣る瀬ない感じで俯いた。
「でも、それでも、たった一人の肉親なんだから……」
「この野暮が黙りなんし」
私は彼を言葉を遮って睨み付けた。
「主にわっちの気持ちなど、わかるはずもなく、好かねえことを言うのは不愉快でありんす」
「そうか。悪かったよ。ならオレは戻るよ」
立ち上がってそう言った。
「待つでありんす」
「なんだ?」
私は煙管を台の上に置き、幾蔵に近づいた。
「主、わっちを抱いてみないか?」
私は彼の顔に指を這いずらせ誘惑をした。
「悪い冗談はよせ。オレは若い衆。そんな事したら楼主にクビにされちまう。クビだけに打ち首かもな」
「そうなつまらない冗談はいいでありんす。なら、わっちを買えば済む話でありんしょ?」
私がそう提案すると、幾蔵は眉を顰めながら
「なに言ってんだ。オレには高級遊女を抱く金なんて持ち合わせてなどない」
そう言い返した。
「なら私が自ら金を出しなんす。それならよござんしょ?」
「悪いな。オレは遊女を抱くつもりはないんだ。抱くなら普通の女がいい。廓詞を使う女に興味はないよ」
幾蔵は私の手を払い、立ち去ろうとした。
「待て幾蔵」
そう言って私は彼の腕を強引に掴んで畳に押し倒した。
「なら一人の女として抱け。私の間夫として抱いてくれ。それならどうだ」
「おいおい、廓詞を使わない朝霧太夫なんて初めて見たぞ」
「その名前もよせ。今夜の私は澪だ。そう呼んでくれ」
私はそっと彼に身体を委ね目を瞑った。
「なんだよ。その名前捨てたんじゃなかったのか?」
「捨てたハズだったのだがな。そう上手いことはいかんという事だ」
そう言って私は彼に、一晩普通の女として抱かれた。遊女としてではなく。無論楼主には私から説明したが、二人共々ありがたい説教を食らうハメにもなった。
なぜ、私がこんな行動するのかよいうと、それを説明するときっと5万の文字にも収まらないだろう。なので簡潔に説明すると、母親を見て動揺したのだ。
私がこの世界に入って飼い殺しになり、外の世界へは憧れしかなかった。例え貧乏な暮らしでも、私にとっては憧れなのだ。そんな普通の生活を送りたかった。
ただ、現実はそうはならなかった。父親に売られ、私の人生はこの店で働く未来しかなかった。それがどれほど悲しい事なのか、どれほど空しい事なのか、私は常に考えないようにしていた。忘れようとしていた。
でも母親を見てそんな気持ちが、ふと這い上がってきた。
なぜ私を捨ててどこか行ったかは知らない、でも捨てたのは事実だ。もし捨てていなかったのなら、家族3人仲良く過ごせてたのではないか、そう考えると憎しみしかない。母親にはそんな憎悪しかなかったはずだった。
だが現実は違った。母親を見て、嬉しさも少しはあったのだ。その複雑な気持ちをどうにか紛らわしたかった。だから、幾蔵に抱かれたのだ。それが大まかな理由だ。
なぜ幾蔵かと言うと、それはよくわからない。
ただ金を持っている、それで女を買い漁る、そんな奴には抱かれたくなかった。もしかしたら私が求めているのは愛情なのかもしれない。愛情に飢えているのかもしれない。
部屋に戻り外を見ながら煙管を吸う。でもそこには私の母はいなかった。
「おい、朝霧太夫」
突然幾蔵が話しかけてきた。
「まず部屋に入る時はノックと入って良いか聞くでありんす。それと太夫は止めるでありんす」
「ノックもしたし、声も掛けたぞ。でもボーッと上の空だから気付かなかったんだろ」
確かに今の私は完全に上の空だ。なにも考えれない。考えると頭が混乱する。考えても状況は変わらないのに、それでも普通の生活に戻りたいという願いだけ大きくなる。でもそんな願いは叶うはずもなく、考えるだけ意味ない筈なのに。
「それで、どうすんだ?」
「どうするもこうするもないでありんす。わっちは遊女。他に道はないでありんす」
私は幾蔵の顔を見ず、外を見ながらそう答えた。
「朝霧はどうしたんだ。お前の気持ちは、建前とかそういうの抜きにして本音はどうなんだ?」
私は煙管を吸いながら黙り込んだ。どうしたいのか、私の本音は、願いはなんなのかを真剣に考えた。
「わっちは、出来る事ならば、普通の暮らしがしたいでありんす」
そう答えた。これが私の本音の気持ちだ。それが考えた結果だ。それが叶わない願いなのは間違いはないのだけど。
「さて、そろそろおゆかり様の来る時間でありんす。主も仕事に戻りなんし」
煙管を台に置き、私は立ち上がった。
私は部屋から出ようと障子を開けると
「そうか、わかった。戻りたいんだな。普通の暮らしに。それが望みなんだな」
幾蔵はそう言った。
「悪い冗談はやめるでありんす。主になにか出来るものか」
「おい、朝霧覚えておけ。我が家の教えはな『抱いた女には責任を持て』なんだぜ」
私はその言葉を鼻で笑いながら
「確か農民の出であろう、主は。そんな家にも教えがあるのとは、驚いたでありんす」
そう嫌味を残しながら私は部屋を出たのだった。
月に一度のお給料日。
この日は遊女の皆が集まり、楼主様直々にお金を受け取る。そんな中であろう事か幾蔵が入って来たのだ。それも刀を差して。
「今は取り込み中だぞ。なんの用だ幾蔵」
そう楼主が言うと
「いや、少しご相談が。この朝霧太夫と一緒に出てうかと思って」
幾蔵は失礼を通り越して宣戦布告の様な発言をした。これは間違いなく打ち首ものである。呆気に取られた私は言葉が出なかった。
「貴様の分際で、なにを言うておる。よほど死にたいように思えるな」
楼主がそういうと、他の若い衆や牛太郎が入って来た。
「おい、貴様の方がどんな分際だ」
そう笑いながら幾蔵は言った。
止めに入ろうとしたが、そうなれば私も打ち首だ。だからずっと黙り込んでいた。コイツは正真正銘のバカが。多勢に無勢。農民の出のお前がなにが出来る物か。この場を切り抜けても楼主に逆らえば一生命を狙われる。たかが一晩抱いた私に、なにをしているのだこの大馬鹿者と思った。
「生意気な口を叩き寄ってこの若造が! やれ、ここで殺せ!」
楼主は怒鳴って部下に命じた。
誰しも『幾蔵は終わった』と思った瞬間、彼はこう言った。
「お前ら、この家紋が見えねーのか。おい」
以蔵は刀の鞘を指を差した。
そして皆動揺し驚愕した。
「おい、その家紋。貴様、成田家の者か!」
成田家。それは由緒正しい武家の家だ。
と言うことは彼の本名は『成田以蔵』となる。それを知った時、ここにいる全員が呆然とした。
「そうだ。オレの名は成田以蔵だ。もし、ここに居るお前らがオレに斬りかかれば、全員切り捨てる。正当防衛というやつだ。どうだ? 殺るか?」
その言葉に若い衆は震え上がり、数歩後ずさりした。
それもそのはず、成田以蔵とは誰もが知っている侍だ。有名な子悪党共を一人で滅ぼした、そんな逸話も数多くある侍。
その驚異の強さに、悪党共はいつしか『伝説の剣客』と表していた。敵は全て切る、どんな凄腕の用心棒や侍を用意しても彼には無意味だった。そんな剣客であった。
「有り得ない! 偽物だ! そんな奴がここで働いているはずもないだろう!」
楼主は叫んだ。
彼はそれを笑ってこう返した。
「なんでだよ。働いたら悪いのか? あぁ、そう言えば自分の身分を偽ってたな。それに関しては謝るよ。済まなかった。許してくれ」
「ふざけるな! オレは信じないぞ! この農民風情が!」
楼主はそう叫ぶ。
確かにそうだ。成田家の侍がこんな所で働く理由はない。
「ここに来たのはもう人は斬りたくないからだ。そんなに深い理由はない。それにオレの異名が『風の以蔵』って知ってんだろ。風の以蔵とはいつもフラフラとしているオレを見かねた、成田家の人間がつけた異名だ。オレはいつも気まぐれなんだよ」
そう堂々と答える以蔵に私は偽物ではないと確信していた。
威風堂々、多数の人間に武器を向けられても動じない目。彼は間違いなく本物の成田以蔵だ。
「そんなにオレが信用出来ないか。まぁ確かにな。オレは身分も素性も偽ったから仕方ないだろうな。ならこうしようか、楼主。今すぐ全員で斬りかかってこい。そしたら分るだろうよ」
そんな事出来るはずもない。もしそんな事して本物の成田以蔵だと分っても、その時はもうすであの世だ。遊郭で働く奴が、それが楼主であろうとこの男には到底敵うはずもない。
場は完全に静まりかえった。
「よし、話はまとまったな。なら行くか朝霧太夫」
とニッコリ笑いながら以蔵は言った。
「太夫は止める出ありんす。それに、行くってどこに行くでありんすか。こんな事して、これから先どうするでありんすか、主は」
「そんなん、どうにかなるって。ほら、いいから立てよ。もう、随分待たせてるから」
私は静まりかえった中立ち上がり、楼主の前で
「今まで本当にお世話になったでありんす。こんな恩知らずの花魁の事はどうか、忘れておくんなんし」
そう言って深くお辞儀をした。
「さっさと、行け。もう用はない、小娘が」
楼主はそっぽを向きながらそう答えた。
「ほら、朝霧行くぞ。いや、澪といった方がいいかな?」
「あまり調子に乗らないでくなんし」
私達は店の門まで歩いて行った。
門を開けようとすると、以蔵は
「もう、ここから出たら花魁でも遊女でもない。ただの普通の人だ。だからもうその廓詞は止めろよ。あと、キチンと言うことは言えよ」
「わかったよ。私もあの言葉使いは好きじゃない。それにキチンと言うこととはなんだ?」
「門を開けたらわかる」
笑顔で以蔵は言った。ここを出る前に私は以蔵にどうしても言いたいことがあった。
「以蔵。本当に感謝する。私を自由にしてくれて、本当にありがとう。もしよかったらでいいのだが、これからも2人で一緒にいてくれないか?」
そう尋ねた。
「勿論だ。言ったろ、抱いた女は責任を取るってな。でも、一つ訂正をしたい所があるな」
「訂正? どこだ?」
そう尋ねると以蔵は門を開きこう言った。
「2人ではなく3人だ」
門を開けると母親が立っていた。私を見て涙を浮かべながら立っていた。
「澪ちゃん……私……」
そういば以蔵はキチンと言えと言っていたな。
だから私は、少々口ごもって気まずそうにしている母に向かって、笑顔でこう言ったのだ。
「お母さん。ただいま」
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