星夜の誘い

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星の輝く夜だった。 暗闇の中、川の流れる音だけがあたりを支配していた。 川面に映る星が女の顔をぼんやりと照らしている。けれど女は無表情、その(かんばせ)には流れる水の揺らめきも星のきらめきも、何も届いていないように見える。 どのくらいそうして佇んでいただろう。人形のように動かなかった女がその華奢な手をそっと水に伸ばした。触れた指先に水がまとわりつき、沿うようにまた流れていく。 「そこで何をしている」 一枚の絵のような静寂を破ったのは低い男の声だった。突然の闖入者に驚いたのか、どこかで小さな獣の駆け去る音がしたが、彼女が声のする方を振り返ることはなかった。 「ただ流れ行く水面を眺めているだけでございます。どなたか存じ上げませぬが、何の誇りも勇気もない、抜け殻のような女などお捨て置きくださいませ」 頼りないほどにか細く紡がれた女の言葉が夜の闇にほどけていく。 「わけあり、か」 男の声が詮索する音を立てる。 「服装は市井のものでも、髪も肌もよく手入れされた貴族のそれと見受ける。話すことばも平民のそれではないしな」 「……」 「何があったか知らぬが、こんな夜の川縁に妙齢の女性がひとりでいるものではない。都まで送ってやるから帰るといい」 女の着ているものは暗がりで見てもそれとわかるほど粗悪な品で、荒れもしみもひとつもない肌と、星明りに輝く白銀の髪とはまるでにあっていない。だが彼女はそれを恥じる様子も悲しむ様子もない――むしろ全く関心がないようですらある。 さらさらと川の流れる音だけが風景を支配する。やがて女は指を水から引き上げた。 「――いいえ、ええ、そのうちに……どうぞお捨て置きください」 「戻らぬつもりか」 「……」 女の返事はない。やがてかさりと草を踏みしめる音がして、男の気配が女に近づいた。 「どうだ、行きずりの縁だ。何があったか話してみるか? 俺は貴女が誰かは知らぬ。そして貴女も俺が誰かは知らぬ。聞かせたところで誰にも知られることはあるまい」 「――聞いても面白くございませんよ」 「面白いか面白くないかを決めるのは俺だ。面白くなければ話の途中で立ち去ろう」 女は少しの間黙っていたが、ぽつりと口を開いた。 「世間知らずの娘の話でございます。婚約者に愛されてると信じ込んで、馬鹿を見ただけの。与えられたものを何も考えず享受し、婚約者の言いなりになり――最後にはブルーノに、婚約者にすべての罪を被せられて。その結果が今の私でございます。家名も財産も取り上げられ追放され、今や名もないただの女なのです」 「ほう、詳しく話せ。なかなかに興味深い」 無遠慮な男の声が続きを促した。その傲慢な響きを意に介さず女は小さく頷くと話し始めた。 ★★★ 女は十六の歳に両親を亡くした。 父親は伯爵であったが子どもは女ひとりだけ、国のきまりで女が伯爵位を継いだ。一人娘ということで後継ぎのための勉強はしていたことが幸いし、危なげながらも彼女は女伯爵としての職務をこなしていくことになる。 領地の管理、社交界の交際。やるべきことは多岐にわたり、彼女はいつも仕事に忙殺されていた。 有能な周囲の助けもあり、伯爵業はつつがなく運んでいた。伯爵になって数年、いいかげん引きも切らぬ縁談を断ることができなくなり、また彼女の支えが必要との判断から、周囲との相談の結果婚約者が決まった。 ブルーノという名の子爵家の三男だ。 ブルーノは王立学校で優秀な成績を納め、友人も多く、人望も厚い。女伯爵の配偶者として申し分ない相手と思われた。その上耀く金の髪に甘いマスク、彼女が夢中になるのに時間はかからなかった。初めての恋だった。 やがてブルーノを信頼した女は「いずれは任せることだから」と自分の執務を一部任せるようにすらなっていった。 「結果から申せば、私が見ていたのは彼の一面にしか過ぎませんでした。彼が上手く隠していたこともありましたが、私の領地を隠れ蓑に彼は禁制品の密輸入をしていたのです」 それと気づいたときにはもう遅かった。 ブルーノは逃亡し、密輸に関するすべての証拠が女伯爵が首謀者であるように整えられていた。 女はすべてを取り上げられて国外追放を言い渡されたのだった。 「私を愛してるといった甘い言葉も全て嘘。ブルーノには何年もお付き合いしている女性がいて、その人と一緒に姿をくらませました。外堀は既に埋めつくされ、私にはその嫌疑に抵抗する術は何も残されていませんでした。立場も財産も失い国外追放され――ああでも誤解なさらないで下さい。それを恨んではおりません。すべては私が恋に目を眩ませ考えることを放棄していた、そのせいなのですから。 追放され国境のあたりに打ち捨てられました。何もかもなくしてしまったからか、身も心も軽くなった気がします。私に残されているのはこの身一つではありますが、もうどうでもいいことなのです。 ああ、ひとつだけ心残りがあるとしたら――両親の代から我が家に仕えてくれた人達に何も報いることができなかったことでしょうか」 「それで身を投げようと思ったか」 「そんな大それたことは考えておりません――ただ、それでもいいと思ったのは事実でございます」 ふふ、と女の口から小さく笑い声が聞こえた気がした。 「さあ、私の話はこれで全てでございます。 どうぞこんな咎人のことは忘れて先をお急ぎくださいませ」 「だが貴女はその密輸には与していないのだろう」 「ええ、もちろん。ですが婚約者のしていることに気づけなかったのは私の落ち度でございます。甘い言葉に目がくらみ、見極めることができなかった。ただの愚か者なのです」 「ふ、全てなくしてしまった、と」 男の声の調子が上がる。どこかあざ笑っているようにも、喜んでいるようにも聞こえる。 「ならば如何する。このままただ朽ちていくのか。人としての尊厳があるなら、陥れた者へ復讐を考えないのか」 「正直、今は考えることができませぬ。あるのは空虚だけ――私は最早翼をもがれたちっぽけな鳥なのです。もうあの人の顔も見たくありませんし、復讐など何の力もない私にはとてもとても」 「もし貴女に復讐する力があったらどうだ」 女は少し言葉を止めて考えた。けれどすぐに小さく首を横に振る。 「あの人をどうこうする気はございません。彼はやったことの報いは受けるべきとは存じますが、もう関わり合いたくないのです――ただ、もしこんな私に未来があったなら、あの人を見返せるだけの成功と幸せこそが復讐だと言うかもしれませんが」 女の答える声はどこか自嘲気味に響く。そんな考えはまるで砂に描いた絵のようなものだ、と。 だが帰ってきた男の声はどこか楽しそうだった。 「ならば俺が攫ってやろう」 初めて女の肩がぴくり、と揺れた。 「勇気もない、と言ったな。選ぶべき道はわかっているがそれを選ぶことが出来ずにいる、ならば俺が背中をひと押ししてやろう――攫われて俺の元へ来るといい」 ゆっくりと女が振り返った。 女の後ろに立っていたのは背の高い男だった。手にはランプを吊り下げており、彼の姿がはっきりと見える。 女の国の者とは違う異国の装束に身を包んだ、濃い色の肌をした青年が鋭い瞳で女を見ている。その髪も濃い色で、長く伸ばされた髪はスカーフのような布で一纏めに結び、左肩に流されていた。 ――まるで本で読んだ異国の獣のよう。 ふと女の脳裏をそんな思いがよぎる。 その纏う気配は強烈で、絡め取られ目が離せない。 強烈に惹きつけられる。 「攫われて、俺のために生きる女になれ。美しいだけの人形になるか、俺のもとで新しい生を始めるか――好きにすればいい。ただし、貴女の命も何もかも、すべては俺のために」 「それもいいですね。でも貴方様にはなんの得にもならないではないですか」 「俺は新しい玩具を手に入れる。だがただの玩具はすぐ飽きるからな。せいぜい自らの価値を証明してみせるがいい。さあ、どうする」 すると女は軽く瞠目した。 「攫う側が攫われる側の都合を聞くなんて、おかしな話でございます」 「それもそうだな――どれ、両の手を出せ」 言われるままに女が両手を差し出すと、男は髪を結わえていた布を外し、女の両手を並べて揃え、その手首を布でくるくるっと縛ってしまった。 「さあ、攫うぞ」 「はい」 女の口から自然とそれを肯定する言葉が漏れた。 男が長いローブをふわりと持ち上げ、手を縛られたままの女をその中に迎え入れる。おとなしく従ってローブの中へ入ってきた女の髪を男が指先でつい、と撫でた。 「星の輝きのような髪だ。そうだな、すべてを無くしたというのなら、これからは――アリーシェラと名乗るがいい。おまえの髪のように白銀に輝く星の名だ」 たった今からアリーシェラとなった元女伯爵は、その時初めて笑顔を見せた。 「美しい名前です。ありがとうございます。あの――貴方様のことはなんとお呼びすれば」 「――ハリルだ。ハリルと呼べ」 「はい、ハリル様」 男――ハリルのローブがすっぽりとアリーシェラを包む。アリーシェラはうっとりとハリルの胸に体を預けた。 そのまま二人は川に沿って歩き始めた。 夜の川縁にはただ星が瞬くだけで月もない。 やがて柔らかな闇に二人の姿が溶けて、消えていった。 後には何も残っていない。 彼女の存在も、名前すらも。 ★★★ それから何度か季節が繰り返されたあと。 エリンドル王国から遠く離れた砂漠の国マルドゥクから一通の書簡が送られてきた。 それによると、エリンドル王国出身のダンという男が、マルドゥクに禁制品の麻薬を持ち込んだとのこと、そしてその麻薬をマルドゥク国内で売りさばこうとしていたのを既のところで捕縛したことが書かれていた。 書簡は更に続く。 調べたところこのダンというのは偽名で、本当はブルーノという子爵家の三男ということが判明した、ついては貴族の系類ということで連絡はするが、マルドゥクの法に沿って裁く。なお、数年前にエリンドル国内でも同様の事件があり、女伯爵が主犯と目され処罰されたようだが、その事件に付いても自身が主導した犯行とブルーノが自白している、件の女伯爵は無実のため立場の回復を図ることをお勧めする―― エリンドル王国は大騒ぎになった。マルドゥクから届けられた資料、そして独自に調べれば調べるほど書簡の通りであることが確定していく。国王はただちに女伯爵の捜索を命じたが、彼女の行方は杳として知れない。なにしろ女伯爵は国外追放になったのだ。すべてをはく奪し、襤褸を一枚着せて国境から追い出した記録のみが残っていて、その後の彼女の足取りは誰にもわからなかった。 エリンドル王国側はマルドゥクへ使者を立てた。連絡に対する礼を述べるためだ。使者はエリンドル王国の若き公爵、王の懐刀と言われるティンバー公爵ダリルが選ばれた。 ダリルが選ばれたのは懐刀というだけでなく、件の女伯爵の幼馴染であるということもある。というか、ダリルが立候補したのだ。彼女の手がかりがわずかでも掴めれば、と考えて。 彼女は幼馴染で、二人の間には友愛しかないが、それは彼女を捨て置く理由にはならない。親同士が仲がよく、まるで兄妹のような関係であった彼女の手がかりが掴めるなら、全く文化基盤の違う国に行くことすらいい機会に思えたのだ。女伯爵に仕えてきた執事や侍女たち共々心配していた。伯爵家が取り潰され、散り散りになった彼らにもせめて彼女の手がかりを伝えてやりたかった。 長い道程を超え辿り着いたダリル一行をマルドゥクの王は歓迎した。丁重に礼を述べ様々な贈り物を持参したダリルたちをねぎらい、宮殿で歓迎の宴を開いた。 マルドゥクはエリンドルとは全く違う文化を持っている。砂漠で暮らすのに特化された生活様式なのだ。 また金の産出国だけあって宮殿は黄金で飾られ、細やかな模様の絨毯や天蓋を惜しげもなく広げられている。椅子とテーブルではなく柔らかなクッションに埋もれて絨毯に直接腰を下ろす方式はダリルにはとても新鮮に映る。 宴は佳境、優美な織物をたっぷりと使った民族衣装に身を包んだ踊り子が蠱惑的に踊る。共に酒を酌み交わすマルドゥクの若き王は周りに何人もの女性を侍らせているが、彼女たちは踊り子などではなくハレムに住む王の妻たちだと聞かされている。皆それぞれ色とりどりの豪華な衣装に身を包み、まるで金の部屋の中に鮮やかな花が咲いたようだ。 酒盃を口に運びながら見るともなしに見ていたダリルはその中のひとりに目を留めた。 美しい女ではあるが、それ以上に異質だったからだ。 あからさまにマルドゥクの女ではない。マルドゥクの民は皆夜空のような濃紺の瞳に漆黒の髪を持つが、その女は銀の髪をしているのだ。 まるでエリンドルの民のように―― 「ま、マリアン……?」 ダリルは思わずその名を口にした。 生真面目だが優しくて人を疑うことを知らない、そんな幼馴染の女性の名前を。 マリアンが密輸をして国外追放になったと聞いたときは信じられなかった。実際、マルドゥクから情報がもたらされた時はほら見たことかと思ったほどだ。 そう、マリアンこそは件の女伯爵だ。 目の前にいる銀髪の女はマリアンに瓜二つだったのだ。瓜二つというより、ダリルにはマリアン本人にしか見えなかった。 「マリアン」 名前を呼び腰を浮かし、思わず乗り出したダリルをマルドゥク王が制止した。 「俺の妻に近づかないでいただこう」 「し、失礼いたしました。その――不躾ながらそちらの奥方様はマルドゥクのご出身ではないのですか?」 「そうだ。アリーシェラ、挨拶を」 声をかけられた女がその顔をダリルに向けた。ダリルは思わず息を呑む。 ハッとするほどに艶やかな彼女の笑顔は目を奪われるほどだ。優雅な仕草でマルドゥク流に一礼すると、ヴェールに縫い付けられた鈴がシャラン、と涼やかに鳴った。 「アリーシェラでございます。ティンバー公爵様にはご機嫌麗しく」 「アリーシェラ……?」 マリアンではない、初めて聞く名前に呆然としていると、マルドゥク王が彼女の腰を引き寄せた。 「いい女だろう? 麗しいだけでなく有能な女だ」 「いやですわ、ハリル様。私はただここから追い出されないように必死なだけですから」 「謙遜する必要はない。おまえは我が国の、いや俺の至宝だ。自ら己の価値を高め、見事に俺の妻と秘書2つの座を射止めたのだから」 「ハリル様――」 仲睦まじい二人の様子、そして何よりアリーシェラの幸福そうな笑顔を見て、ダリルはそれ以上続ける言葉を見つけることができなかった。 今や彼女の居場所はここなのだろう。自分に冤罪を被せ追放した国ではなく。そう素直に思えた。 (ああ、君はここで幸せを見つけたのか) それを確かめられただけでダリルには充分だった。 「マルドゥク陛下、アリーシェラ様。お二人がお幸せならば何よりでございます」 ダリルはそう言って、手にした金のゴブレットを高く掲げ乾杯した。掲げたゴブレットに満たされた上等な酒に青白く月が映り込み、ゆらゆらと柔らかく輝いた。 エリンドル王国では件の女伯爵の行方を追いかけたが、マルドゥクへ派遣したティンバー公爵ダリルからも芳しい知らせはもたらされることはなかった。 何度月が満ち欠けを繰り返そうと、ずっと。
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