暗闇の中での死闘

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暗闇の中での死闘

 暗闇の中、憎たらしい「アイツ」のシルエットが浮かび上がった。  ハゲ散らかした黒狸こと『クソ課長』。  新人のマリちゃんには愛想良くふるまっているのに、同じ新人の中村くんは無視したり冷たくあしらう。  今日なんてマリちゃんに簡単な書類の作成を頼んで、丸一日かかってたのに「よくできたねー」なんて、バカか。私なら十五分で出来るわ。ボケ。そのくせ、中村くんに資料作成を依頼した時なんて、あれがダメだ、これがダメだのダメ出しばかり。ダメ出しばかりじゃなくて、どうしたら良いか少しは教えてやれよ。  若い女にはとことん甘く、三十過ぎた女(私含む)と男にはまったく興味を示さない。小さい人間だ。  大体見た目だって、小太りがハゲ散らかして、スーツの肩にフケも溜まってて、目つきもスケベだし、存在自体がきもいんだよ。  大した仕事もしないくせに、偉そうにしやがって、なんであんな奴が課長なんて立場なんだよ。まったく意味がわからない。  心の底から黒いドロドロとした毒のようなものがせせり上がってくる。  今日という今日は絶対にボコボコにしてやろうと決めていた。  もう一度、目の前を見つめフッと息を吐き、拳を強く握った。この半年間、みっちり格闘技を学んできた。徹底的にやってやる。  私は目の前に立っている『クソ課長』に正面からツーステップで近寄り、左の首元目掛けてハイキックをお見舞いした。  クリーンヒットした『クソ課長』は右側にゆらりと傾く。すかさず右フックを振り抜く。  渾身の右フックは『クソ課長』の左頬にめり込み、さらに左からフックをお見舞いする。  そして、左に傾いた体がまた右に戻ってきたところに、渾身の右ストレートを放った。  綺麗にワンツースリーまで決まると、『クソ課長』は声を上げることなく後ろに倒れた。 「よし、次っ」  私は倒れた『クソ課長』を横目に、次の目標へ向かう。  次は『使えない部下』だ。  暗闇の中でこちらの殺気に気づいたのか、振り返ったところを右頬に思い切りビンタした。  『使えない部下』は「どうして?」というような表情を浮かべて、頬に手をやる。 「会社に三年もいて、なんで両面コピーもできないんだよ。ホチキスを止めるのは左上だ。左側に二箇所も止めるなんて本でも作ってるのか。それと、若いんだからもっと早く電話を取れよ!」  逆の頬にも思い切り振りかぶりビンタをした。 「あと、無駄話してるなら残業申請するんじゃねぇよ!」  最後に右足で前蹴りをくらわせると『使えない部下』は、腹を押さえて足元から崩れ落ちた。  コイツはこれくらいでいいだろう。あまりやりすぎると可哀想だ。  うずくまっている『使えない部下』をさげすみ、次の目標に向かう。  そして、三人目。  暗闇の中に姿を表したのは『長身の女』だ。  私はコイツが一番嫌いだ。  弱いくせに強がってばかり。文句ばかり言うわりにガラスのメンタル。金遣いは荒く、美人でもないくせに彼氏には高望みをしている。女の中でもだいぶめんどくさいタイプだ。こいつは中学、高校とバレーをやっていたからそれなりに体は強い。今日一番の強敵だ。  『長身の女』がどんな攻撃を仕掛けてくるかガードの下から注意深く見つめると足元が動いた。前蹴りが来る。私はガードを固めながら後ろにステップすると、予想通り前蹴りで、ギリギリの距離で避けることができた。あの前蹴りは当たったら、倒れてしまったかもしれないほど、重さがあった。  一旦、距離を取り、左右にステップし相手の様子を伺う。  相手が攻撃に疲れてきたのか、動きが鈍くなってきたようにみえる。  このスキを逃すまいと、何発かジャブを打ち込むと、『長身の女』は脇を閉めてガードを固めた。ガードの上からでは、何発打っても決定打にならない。このままでは時間だけが過ぎてしまう。 「何か方法はないだろうか」  相手にスキがないか、ジャブを打ちながら観察する。  がっちりと脇を締めたガードポジションには、頭もボディーもパンチを打ち込むスキがない。  しかし、一つだけみつけてしまった。そこはみぞおち下の下腹部だ。  相手が女性であれ格闘技の試合でそこを攻撃したら反則負けになる。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。ここではルールなど無いのだ。残された時間はわずか。やるしかない。 「お前はいつもいつも愚痴ばかり、うるせぇんだよ! いつまでも私の足を引っ張るんじゃねぇ!」  私は拳を強く握り、思い切り踏み込んで相手の下腹部に今日一番のアッパーカットを打ち込んだ。  『長身の女』は下腹部を抑えながら一歩後退り、ガードの空いた顔面に渾身の右ストレートを打ち込んだ。  『長身の女』は、数回ゆらゆらとした後、動きを止めた。 「勝った……」  私はあふれる達成感と共に、ロッキーのように両手を上げた。 「はい、みなさま。今日のエクササイズはここまで。さぁ、疲れを残さないようにストレッチをやっていきましょう」  アップテンポのBGMから穏やかなBGMに変わり、スタジオが少しだけ明るくなった。  前に立っているインストラクターはBGMに合わせてゆっくりと前後左右に体を曲げていた。 「暗闇の中、みなさまの大嫌いな人をサンドバッグにイメージして、しっかりやっつけることができたでしょうか? ぜひ次回も暗闇エクササイズのご参加おまちしております」  ストレッチが終わると、スタジオの照明は眩しいほどの明るさになり、参加者がぞろぞろとスタジオを出て行く。持参していた水筒を開けプロテインを飲んでいると、インストラクターが声をかけてきた。 「今日はいつも以上に気合が入っていましたね」 「そうですか?」  私はとぼけた素振りで答える。 「特に最後の方、尋常じゃない気合の入りようでしたよ。なんだか本当に戦っているみたいでした。今日はしっかり敵は倒せましたか?」 「はい。もちろん」  大嫌いな敵を今日も全員倒すことができた。  『クソ課長』『使えない部下』、そして『長身の女』こと『昔の私』も。  弱い私は何もかも許せなかった。でも、今は違う。格闘技を初めてから、あまりイライラしなくなったし、些細な事なら許せるようになった。本当にムカつく時にはこうやって暗闇の中で相手をイメージして、徹底的に打ちのめせばいい。私は昔の弱い自分に打ち勝ったのだから。  私は胸を張って堂々とスタジオを後にした。
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