蛤の欠伸

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「朝倉さん」 私の呼びかけにその人が振り返る。 色の薄い髪に眼鏡越しの穏やかな瞳、そして落ち着きのある整った顔。上背のある体にダークグレイのスーツと黒いコートがよく似合っている。年齢を知らないけれど恐らく三十も半ばを過ぎたくらいだと思う。 私を見つけて驚いた表情になる。しかしすぐに彼は見慣れた柔らかい微笑みを浮かべた。 ああ、やっぱり朝倉さんだった。 人違いではなかった安堵感と唐突に声を掛けてしまった恥ずかしさとで咄嗟に次の言葉が出てこないでいると、朝倉さんはゆっくりと腕時計を確かめた。隣に立っている背の高い男性に何かを言い置いて私の方へ近づいてくる。 「お久しぶりです」 その声に嫌味や揶揄いの色はなかった。純粋に旧知の人間へ向けた挨拶に私は妙にどきりとした。こんな所で詰られたい訳ではない。けれど気まずさのないあいさつが逆に私を落ち着かなくさせる。 こんな穏やかに話が出来るほど、かつて私がしたことはこの人にとっては他愛ないものだったのだと思い知らされるようで。 勝手な感情だとわかっている。なのに動揺が顔に出てしまいそうで意識して唇に笑みを浮かべた。 「ご無沙汰しています」 「五年ぶりでしょうか」 律儀に交流のなかった期間を覚えているのが朝倉さんらしい。咎めるでもない口調で言われてついついそんなに経っていたかと驚く。突然会わなくてなってから五年。私は学生ではなくなったし、恐らく朝倉さんにも変化があっただろう。それでも変わらない優しい笑顔が嬉しかった。 「就職したんですね」 「はい。名刺を渡しても差し支えありませんか?」 「大丈夫ですよ」 互いに手慣れた様子で名刺を交換する。以前交流があった時、私は朝倉さんの仕事も勤め先も知らなかった。訊けば教えてくれただろうけれど、当時の私はその情報が必要だとは思わなかった。だから好奇心たっぷりにまじまじと手元の紙片を見てしまう。 職種は営業となっていて少し意外な気がした。いつも物腰穏やかで柔らかな声を出す朝倉さんが押し出しの強さが必要な仕事をしているところの想像がつかない。 けれど肩書きが課長となっていたので優秀なのだろうなと察する。一緒にいる人は部下なのかもしれない。仕事中に声をかけたことが急に気になった。
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