蛤の欠伸

4/9
前へ
/46ページ
次へ
朝倉さんと初めて出会ったのは自宅近くの市立図書館だった。当時大学の三年生だった私は酷く倦んでいた。気の塞ぐ出来事が続いていて腐りそうだと感じていた。 だから何か高潔なもの、清廉なものに触れたかったのだ。レポートのための資料は専ら大学の図書館で借り受けていたけれど、この時は珍しく詩集が思想書を借りようと思って近所の図書館に出かけた。そこで声をかけてきたのが朝倉さんだった。 人間不信になっていた私は見知らぬ男性に声を掛けられて怯んだ。それにそんなふうに男性に近づかれるのも実は初めてではなかった。背丈が一七五センチほどある上に別に女性的な訳でもない。普通の愛想のない顔をした男なのに、何故か時々男性に声を掛けられる。 予々(かねがね)不思議で仕方なかったけれど、この少し前に大学の同級生から「泣かせたくなる男」というありがたくない評価を貰っていた。しらっとして見える私の顔立ちは彼のように嗜虐的な性癖を持つ男にとって魅力的に映るらしかった。 うんざりすると振り返った先で穏やかな印象の顔が優しく微笑んでいた。十センチほど視線を上向けると柔らかな茶色の髪に黒い縁の眼鏡、柔和な顔立ちのなかで一際優しい印象の双眸が私を見ていた。 「詩集ならこれがお勧めです」 朝倉さんがフランス文学の棚から抜いたのは『ランボー詩集』だった。結局私はその本を借り受けた。 それ以来朝倉さんとはちょくちょく会った。大学で中国文学を専攻したという朝倉さんは文学全般に詳しかった。次に読む本のアドバイスだったりもっと他愛のない互いの生活に関する世間話だったり、今となっては内容なんてほとんど覚えていない。 けれど朝倉さんと会った日は不思議と心が落ち着いたのを覚えている。人と交わることでざわついた心持ちが彼と話しているとすっと静かになった。その感覚が心地よくて私は朝倉さんと顔を合わせるのを楽しみにしていた。 けれどある時から会わなくなった。私が、朝倉さんを避けた。 あの時は子供だったなと息をつく。白い息は少しの間残って溶けて消えた。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加