俺は牛乳が飲みたかっただけだぜ?

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俺は牛乳が飲みたかっただけだぜ?

 職人が一年かけて作ったとかいう磨りガラスが嵌められた重厚な木製のドアを隔てた向こうに目的のものはある。  ドア一つ見ても金持ちだと思わせたい見栄が窺えるような、そんな無駄な造りが見て取れる家だ。  正気言って悪趣味だ。  他に使っていない部屋がいくつかあるし、ちなみに俺の部屋もそこそこ広いがその中でも狭い。  早々に家を出たいと思ってる俺が居続けているのには相応の理由がある。  家庭を顧みない仕事人間の行き着いた先は、自己顕示欲を満たせる金をかけた家を手に入れることだったというオチだ。  溜息を()きつつドアを開けリビングへ。  すぐ目に付くのは全員分の席が埋まることがなくなって久しいカウンターキッチン。  大きいだけのテーブルと座り心地だけはまあまあなデザインの悪いイスが数脚並んでいる。  右手奥に電動リクライニング機能のあるベージュ色のソファ、その前に今年買い換えたばかりの大型のテレビがあると思う。  思う、という表現になったのは近づくよりも先に俺の足が止まったからだ。  よく見るとカウンターキッチンの中に誰かがいた。  イレギュラーなことに俺の母親が立ち尽くしていた。  仕事か男か他の何かに忙しそうにして、家にほとんど帰ることのないが。  父親も似たようなものだから、ほぼ一人暮らしに近い。  まあ一人で家にいることがあんまりないのが矛盾してて笑ってしまうけど。  自炊も気が向いた時にしかやってないというのに、そんな俺が一番キッチンに立ってるはずとか意味のない比較を始めたりして。  前に彼女に会った時のことをあまり覚えていない。  姿を見たのは三ヶ月ぶりぐらいだろうか。  といっても、着飾って出かけていく後ろ姿をちらっと見たような気がする程度。    俺は調子を狂わされてたのだろうと今では思う。  距離を置いている彼女に対して柄にもなく「おはよう」と声をかけようとしたのだから。 「……逃げなさい。幻真(げんま)早く! この家から、この国から逃げなさい!!」  彼女の叫びで俺の精一杯の愛想は遮断された。  絶叫となった声の判別はつくものの、向けられた言葉の意味がわからない。  咄嗟(とっさ)に彼女のそばに寄ろうとした。  なんとなくそうしようとしたとしかいえない。  特にそれ以上の意味はなかった。  まだこの時の俺は、身嗜みにこだわる彼女にしては果敢ない格好をしていることに気づけない。  人間は手遅れになってから気づくことが多いらしい。  黒い滲みが服を染めていて、破れている箇所もあるというのに。  髪だっていつも美容室でセットされている髪型と随分と違った。  見間違えでなければ焦げているようにも見える。  あちこちに跳ねた髪。  化粧すらしていないように見えた。  彼女は……こんなに母親らしい顔をしていただろうか。  こちらに来ようとしたのだと思うが、数歩をぎこちなく歩いたところで立ち止まってしまった。  この時の俺には理由がわからない。  距離は2メートル弱。 「私のことはいいから……早く、早く逃げなさい!! ごめんね、悪い母親で、もっと、なにか、してあげ……られたら……よかった……のに……ね」  早口だった叫びは速度を落とし、声量を落とし、ゆっくりと陳腐なドラマみたいなセリフが耳に届く。  彼女はそう吐き出すように言葉を紡ぐと、見ていて苦しくなるような笑顔を見せた。 「…………は? なにを……? どういうことだよ?」  こういうときに倒れる姿がスローで見えるのは、テレビの中の演出だと思っていた自分がバカだと思った。  あまりにゆっくりと膝をつき、頭の重みで床に吸い込まれていく。  額が割れたのか割れていたのか血がじわじわと広がる。  頭の中も心の中も疑問符で満たした俺がそばに寄るのも待たずに、彼女は崩れ落ちた。  急に虚無感と後悔が胸の内に広がる。  好きでも嫌いでもない居なくても構わないとさえ考えていた母親に対して、こんな感情を抱くなんて思いもしなかった。  彼女が前へ倒れたことで、何かが背中に刺さっているのが見える。  小学生の頃に授業で鉛筆を削るのに使った覚えしかない小刀だった。  まだ息があったりはしないのかと、血まみれになるのも構わず彼女を抱える。  胸に耳を当てる。  心音が聞こえない。  俺は素人だからかもしれないと他の方法を試す。  テレビの真似をして口や鼻に手のひらを当てて呼吸を確かめる。  何もない。  「おい」と声がけしても返事もない。  腕の中で緩やかに体温が消えていっているような錯覚に陥る。  実際はどうなんだ?!  推理小説で読んだってやつが起きているのかもしれない。  いや、こんなに早く起きるって書いてあったか?    ふと、何かにだけは気づいた。  それでもやっと察知したのかと文句を言いたい。  彼女の登場によほど動揺していたとしか思えない。  一切感じ取れなかったのだから。  彼女が立っていた後方、そこは食料庫と呼んで差し障りないスペースがある。  そこには、暗がりとはいえ二、三十人の人間がいるように視認できた。  得物としてかゴルフクラブや金属バット、中には鉈のような刃物を一様に持っている。  背格好からすると全員が男に見えた。  スウェット姿の二十代らしき男たちがいれば、スーツ姿の中年や作業着姿の男たちもいる。  まとまりのないバラバラの集団。  連中の中には見慣れた姿がいた。  
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