深海

2/2
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 どうやら白い悪魔は眠っているようだ。小魚がつついても目を覚ます様子もない。  ならばこれは好機である。  私は小魚に狙いを定めて岩陰から泳ぎ出る。あまり海流を乱さないよう、尾ひれを小刻みに動かし極力接近する。小魚に追従するように近づいた私は意を決して尾ひれで海水を蹴飛ばした。  私が小魚に襲い掛かるのと、小魚が私に気付くのは同時だった。  顎を大きく開き、間髪を容れずに閉じる。口内に棘のような食感の物を捕えた。背びれの一部だ。  紙一重の所で逃げられたが、私は再び小魚に追い付き噛みついて見せた。今度は下半身を捕えた。激しく暴れる小魚の鱗が口の中ではぜる。このまま飲み込んでしまおう。  そう思った矢先の事だった。視界の隅で悪魔がぬるりと動いた。  獲物を捕らえたままでは逃げられない。私はとっさに小魚を離して身を翻した。悪魔は私の鼓動一拍を置かぬ間に私たちの元まで滑り寄り、放射状に触手を広げた。弱った小魚に逃げる術はない。小魚は吸盤のついた檻に閉じ込められる。一度大きく身を震わせた小魚だったが、その後はピクリとも動かなかった。  私は心の底から慄然とし、悪魔の恐ろしさを思い知った。  恐怖に硬直していた私の体は、小魚を貪る白い悪魔と目が合ったことで弾かれたように動き出した。今まで私が出したことが無い速さで元来た道を引き返す。逃げ切れたのはほんの幸運によるものだ。  深い闇の中に戻ってきた私はふっと安堵する。もう、しばらくは上へ行く気はない。明るく生命に富んだあの場所は、暗く天敵すら見つけ難いこの場所とは段違いだ。  私がしばし休んでいると、上の方から光るものがゆらゆらと泳いでくるのが見えた。私の存在に気付いていないのか、呑気に降りてくる。ついさっき逃した小魚よりもう一回り小さい魚だ。前に食べたことのあるものと同じくらいの大きさだ。確かあの魚も腹部の辺りが光っていたように思う。  私はつきかけていた力を振り絞り、魚を見上げた。そこで初めて私の姿に気が付いたのだろう。その魚はふっと方向を変えていく。光が遠くへと逃げていく。これを逃すわけにはいかなかった。  めいっぱい尾ひれを動かして魚の後を追った。光はすでに見えなくなっているが、きっとまだ近くに居るはず。上にいた時とは違い、すぐに息が苦しくなった。どろりと重い海水が体全身にまとわりつく。  あの魚はどこへ行ったのだろう? 辺りを見回している最中、突然私の体が動かなくなった。体全体を熱い何かで覆われ、強く圧迫されている。息ができなかった。もがこうにもそんな力は残っていない。わずかにヒレを動かすが、それが何の解決にも繋がらないことは理解できた。息を吸うことも、吐くこともできない圧力が体を押しつぶさんばかりに私を包み、間もなく私の意識は薄れていった。  薄れる意識の中においても、やはりそこは闇色で、何も映ることのない深淵だけが広がっていた。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!