第一章 それぞれの歩みと心の裏側

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「喜助さん、本当に好きな人を前に臆病になってしまう、あなたの気持ちは分からなくもないのですが、それで気持ちのない人と結婚しても、結婚相手もあなたも麗さんも不幸になりますよ。まだ、花橘は実を結ぶまでいっていません。今なら間に合うんです。麗さんがあなたからの連絡をブロックせず、それでも応じないのは、『欲しい言葉』を待っているのではないでしょうか?」  喜助さんはハンカチを受け取り、鼻をすすりながらスマホを手にする。 『麗さん。あなたが懐中時計に託した想いを受け取れました。花橘は、まだ実を結んでいません。見合いの話を進めるのはやめようと思います。大切な話をしたいので、会ってもらえますか?』  そうメッセージを送ると、ややあって『OK』というスタンプが返ってきた。  喜助さんは、はああああ、と救われたような声を出す。 「良かったですね、喜助さん」  私が笑顔で言うと、喜助さんは、うん、とはにかむ。 「……各方面にめちゃくちゃ怒られそうだけどね」 「それでも、取り返しのつかないことになる前で良かったですよ」  そう言ったホームズさんに、そうだね、と喜助さんは頷く。 「ありがとう。重ね重ね、情けない姿ばかりお見せして……」  いえいえ、と私とホームズさんは首を振った。  それでも喜助さんは、気恥ずかしいようで、いそいそと帰り支度を始める。 「それじゃあ、もう遅いし、僕はそろそろ。本当にありがとう」  喜助さんは立ち上がって頭を下げ、帽子を深くかぶる。  そのまま背を向けた喜助さんに、「ああ、喜助さん」とホームズさんが声をかけた。  うん? と喜助さんが足を止める。 「その懐中時計が贈られたのは、いつ頃でしたでしょうか?」  ええと、と喜助さんは、記憶を確認するように上を向く。 「もしかして、京都に来る少し前でしたか?」  ああ、と喜助さんは頷いた。 「そうだ。南座公演の直前に。それがどうかした?」  いえ、とホームズさんは目を細める。 「今度、ゆっくりお越しください」 「うん、ぜひ。バタバタするから、春頃になるかもしれないけど」 「ああ、それでしたら、とっておきの和菓子を用意して待っていますので」 「とっておきの和菓子ってなんだろう、楽しみだな」  喜助さんはもう一度礼を言って、店を出て行った。
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