最終章 Dear my baby

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「深山 真咲さん!どなたかと一緒ですか?深山さん!」 「キャー!みゃっきぃ、こっち見てぇ!」 早朝の羽田空港。宜嗣のセッション以来、一皮剥け、裏表の無くなった真咲は、スマホを構えた家内制手工業的芸能記者達の求めに応じ、ポーズを決めたり、サングラスを外して見せたり、手を振ったりして、ファンサービスに余念がない。 「人を見たらファンと思えってか、」 甲斐は時計を気にしながら、タレントとしての自覚が芽生えてきた秘蔵っ子を程よい距離から見守っている。 「誰もいないよ!ひ、と、り。寂しーよぉ、」 カメラに向かい泣き真似をすると、人垣からキャーっという声が上がった。 「そろそろお急ぎください。」 トランシーバーを手に持った、エアラインのグランドスタッフが真咲を急かした。 「じゃあもう行くよ。みんないい子でね。利用者の皆さんの邪魔にならないように、おとなしく帰るんだよ。じゃあね。愛してるよ!」 真咲が投げキッスをすると、一段と大きな奇声が上がった。 「何してるの!時間はいいの?のりちゃん。」 吹雪が壁の時計を見て声を上げた。 「うーん。もうちょっとだけ。じゃ、あと頼むね。葉子さん。」 宜嗣は、吹雪の急かす声を聞いても尚、葉子と呼ばれた女性の腕に抱きとめられた赤ん坊の柔らかい腹をくすぐり、笑わせている。 「ああもう、一緒に連れて行きたいよ!」 「何言ってんのよ。これから一世一代の大仕事でしょ!それにしても、のりちゃんがこんなに甘々なパパになるとは思わなかったわ。」 呆れるやら微笑ましいやら、宜嗣の背中を押しながら、読んでいる途中の新聞から目を離しこちらを見上げている桜彦と微笑み合う吹雪だった。 「この分だと今日の漁も成果はあまり見込めないな。」 「だけど、船を出さなきゃ、メシの食い上げだ。」 「違ぇねぇ、」 恨めしそうにというより、軽口を叩き合うために空を見上げながら、男達がさんざめいている。 その中でも一番の長老が、今年入ったばかりの少年に目を留めた。少年は会話にも加わらず、港の端ばかりを見ている。長老は他の漁師に突っ込む余地を与えるように、大袈裟に新米の視線を追った。 あはは、 「コイツ、フィッシャーマンズワーフの中にある、パン屋を見てるんすよ。」 若者よりいくつか年嵩の若者が告げ口する。 「パン屋ぁ、お前腹減ってんのか?」 男達はゲラゲラ笑った。 「ていうか、パンはパンでも聖餐(せいさん)の儀式用のパンって感じっすかねー」 「なんだそりゃ。」 「まあ見ててくださいよ。もうすぐ出て来ますから。」 ギィ、 ‘merci.’(ありがとう) ‘Au revuoir!’(またね) バタン、 大きく膨らんだエコバックを抱えて、特別背が高くもなく低くもない女が店から出て来た。店の前に停めた自転車のハンドルにエコバックを掛けると、肩口よりやや下まで伸びた栗色の髪をなびかせ、男達の前を颯爽と走り去っていった。 ほぉ、 男達の口からため息が漏れる。 「そりゃあ、見るよな。見つめちゃうよな。」 「ああ、眼福、眼福。」 「聖餐がどうのこうのと言うより、ありゃ、聖母そのものだな。」 「聖母だってよ。信心のかけらも無いお前の口からその言葉が聞けるとはな。」 ワハハハ… 「明日も来るかなー」 「どうだろうなぁ、」 海岸のすぐ近くを走る道路を横断すると、女は自転車を押して歩き出した。 「行きはヨイヨイ帰りは怖いって、この事ね。」 目の前に伸びる坂道を見上げてため息を吐く。 「でも、せっかくのクロワッサンが湿っちゃうから、ちゃっちゃと登っちゃいましょ!」 女は自分にハッパをかけるように呟き、坂を登り始めた。 登っていくに従って、さっきまで薄く広がっていた霧がまた濃くなってきたような気がする。 「よいしょ、よいしょ…はぁー」 ようやく平らになった場所に着き、息を整えるが、こうも湿度が高いと、上手く息が吸えていない気がする。 ペダルに足を掛け、こぎ出そうとした瞬間、すぐ目の前に真っ赤な大きな物体が現れ、慌てて自転車を降りた。 ・・・こんな所に自動車を止めてるなんて、観光客が道にでも迷ったのかしら?…ダメダメ、こんなところで立ち止まっちゃ。道でも聞かれたら困る… 女は細い道を向こう側に渡り、車をやり過ごす事にした。 しかし、それには一歩遅かったようだ。 ‘Bonjour !’ 車の運転席から男の声がして、一人車から下りてきた。が、しかし、霧が濃くてその顔がほとんど見えない。 ‘Bonjour.’ 取り敢えず返事をして、前に進む。 ガチャ、 また一つドアが開いた。 「なあ、本当にここで合ってるの?」 日本語だ。 驚いた女が一瞬足を止めたのに、車からすでに下りていた人物は気づいたようだ。
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