第1章 さよならだけの人生

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「完成っと、」 ガスの火を止めた亜子(あこ)は、湯気を上げるストゥーブの蓋を少しずらし、アルコールの飛んだワインとタイムとローリエの立てる芳しい香りを吸い込みながら、満足気に微笑んだ。 フランスの家庭料理、鶏肉の赤ワイン煮込み《クック オ バン》は、夫の昌幸(まさゆき)の好物だ。 今日の晩は何が良い?と聞くと、かなりの頻度でこのクック オ バンをリクエストされる。 その度に亜子は、苦笑いしてそれに応じるのだ。 ゴトン 鋳物鍋の重い蓋を閉じると同時に、電話が鳴り始めた。夫から帰途に着くという連絡が入る頃だ。亜子は手を拭いながらスマホを取り上げた。 あら、 開いてみて気づいたのだが、鳴っているのはスマホではなく家の電話の方だ。亜子は一人、肩を竦める。 新しいものの苦手な夫は携帯電話のメールでさえ嫌がる。これから帰宅するという電話を亜子のスマホに掛けてくるのが習慣だった。 「はい。岸田ですが、」 相手は、聞き覚えのない男の強張った声。 次の瞬間、亜子は車のキーを引っ掴み家を飛び出していた。 ・・・先生、先生、先生!・・・ 夫が倒れたという連絡だった。 搬送されたのは隣町の救急指定病院だという。 手が震え、ナビの打ち込みを何度も失敗(しくじ)ってしまった。 それでもどうにか辿り着き、目についた駐車スペースに車を停めた亜子は、正面玄関に向かった。既に診療を終え灯りが落とされている。キョロキョロとしていると、閉ざされていた自動ドアの内側に作業服姿の男が現れ、自動ドアを両手で抉じ開け、体を斜めにして滑り出て来た。 「岸田先生の奥様ですね。」 男が聞いた。 「あ、ええ。お電話いただいた?」 「吉澤です。どうぞこちらへ、」 シーンと静まり返ったホールから、長椅子が並ぶ一般待合を抜けて白い廊下を吉澤の後を追っていくと、蛍光灯の灯りも煌々と大勢の白衣が行き交う一角に出た。 吉澤は急に歩みを止めると、開け放たれたドアから中を指差した。 「あの隅のベットに先生が… 私は明日の一般説明会の準備がありまして、その…」 「え、あ、そうですね。分かりました。どうぞ行って下さい。」 「また後で寄りますから、」 一歩室内に足を進めた亜子を呼び止めるように言う。 「ええ、お願いします。どうぞお気をつけて、」 最後の一言は身についてしまった習い性のようなものだが、年の頃は亜子と同じ位に見受けられる吉澤は、一瞬ポカンとし、それからわずかに微笑んで、足早に去っていった。 亜子は軽く頭を下げながら、いくつもある精密な機械やベッドを通り過ぎ、一番端のベッドの足元に辿り着いた。 立ち尽くす亜子に、点滴を調節していた看護師が気が付いた。 「岸田 昌幸さんのご家族の方でいらっしゃいますか?」 ベッドに目を向けたまま、亜子は機械的に頷く。 「良かった。さっきの男の方は…」 「お仕事が残っているとの事で…あ、でも後でまた寄って下さるそうです。」 「その方がいいですね。岸田さんが倒れられた時あの方が側にいらっしゃったそうですから。」 そう言って、ベッドの横へ亜子を促した。 ほとんど白くなった生え際は確かに夫に似ている。しかし、本当に夫なのか確かめようにも、瞼は固く閉ざされているため、いつも好奇心でくるくる動く瞳はこちらを見てくれないのだ。 「宜しいですか?」 硬質の男の声が耳に届いた。 振り返ると、いつの間にか看護師は居なくなっており、ビリジアンのスクラブを着た中肉中背の男が立っていた。 「医師の高城です。」 首から下げた入構証に、高城 宜嗣(のりつぐ)とある。 「あ、妻の亜子です。」 慌てて亜子も名乗った。 「奥様。ご主人の病状ですが、」 どこかその辺からスツールを二脚持ってきて、ベット脇に座るように勧める。 「急性心不全を起こされています。今は薬で落ち着いていますが、危険な状態に変わりはありません。」 如何にも救急医らしい無駄のない話し方だ。 亜子の顔色がさっと変わったのを見てとると、高城は、 「ご存知無かったですか?」 と、意外そうに目を見開いた。 「若い時から心臓に障害があるのだとは聞いていました。しかし薬を飲み続けていれば大丈夫だと…」 出来ればその詳しいところは誰にも言いたくはない。 言葉を濁す亜子を高城はさらに不審そうに見つめていたが、その自分の態度こそが不安にさせていると気づき、フフと笑いを漏らした。 「仰りにくい事を無理に聞き出そうというのでは無いんです。岸田さんは初診ですし、かかりつけ医からカルテを取り寄せるのにも時間を要しますから、できる限りの情報をお聞きしたいというだけで、」 確かに、 医師には昌幸の病状を知る権利がある。それには、ある程度昌幸と亜子との経緯を話すべきだ。 「分かりました。 夫と初めて出会ったのは、高校の時で、夫は私の担任でした。」 亜子はおずおずと話し始めた。 高城は、ピクリと片方の眉を上げた。 「その頃に聞いたのです。幼い頃から心臓に障害を持っていて激しい運動は出来ない。だけど薬を飲み続ければ大丈夫なんだ。と、」 「なるほど。しかし、このようになるまでにはずいぶん時間がかかっています。その間に何度も発作を起こしているはずなのですが、」 亜子は首を振った。 「高校を卒業してから、夫とは連絡を取っていませんでした。再会したのは三年前。結婚してから二年になります。正直に言いますと、夫のかかりつけ医も知りません。知っておくべきだと言いましたが、夫は子供の頃から掛かっているお医者様だから君は心配しなくてもいいと…」 「そうですか…大分踏み込んだ事をお聞きしてしまいました。」 高城は、白いマスクで表情が見えないながらも、沈鬱な声で言う。 亜子は首を振る。 その時、 「あの、よろしいですか、入院手続きの事なんですけど、」 カーテンの陰から看護師が声を掛けてきた。 顔から表情が抜けたかと思うと高城はすぐに立ち上がった。 「入院の手続きをして下さい。かかりつけ医についてはこちらからも調べてみます。」 高城は事務的に言うと、足早に去っていった。
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