あいつ

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あいつ

 深夜12時過ぎ。  好きな歌手の曲をかけながら食器を洗う。 「ふんふん~ふんふふん~」  鼻歌を歌いながら、茶碗を泡だらけにする。 「あ」  勢いよく泡が飛び散り、着替えたパジャマにまで飛んでしまった。 「まあいっか」  まくった袖で服に擦り付ける。どうせそのうち洗うんだし。  箸、しゃもじ、炊飯器の……中のやつ。何ていうんだろう、これ。  曲が切り替わる。夜のムーディーな雰囲気のこの曲も、好きな歌手の曲。  泡にまみれた手で蛇口を捻る。  透明な水が流れ落ち、シンクに打ち付ける。 「ふ~ふふ~ん」  箸、しゃもじ、茶碗、炊飯器のやつの順で流していく。  泡が排水口に吸い込まれていく。キャーとか、ウワーとか言ってるんだろうか。 「子どもか」  ひとりで突っ込む。  洗った物を、水切りカゴとして代用している、あみあみの食器置き場に並べていく。元々は箸とかスプーンとかフォークとか、そういうものが置いてあったところなんだけど、水きりカゴがないと気付いてからは、勝手に水きりカゴとして使わせてもらってる。母、ごめん。 「おっと」  カコンと音をたてて、しゃもじがシンクへ落ちた。壁に貼り付くように設置されてる元・食器置き場──現・水きりカゴから落ちたしゃもじは、また水に濡れてしまう。 「まあいっか」  水でさっと流して、水きりカゴへ。 「よし」  タオルで手を拭いて、ふっと息をつく。 「さてと、戻るか」  水に濡れないようにIHコンロの隣に置かれていたスマホを手に取ろうとした、その時。  ブーブー  マナーモードに設定したままだったスマホが震えた。 「ん?」  明るくなった画面には、懐かしい電話番号。  思い出したくもない、電話番号。  ──なんで今さら。  ──どうしてこの時間に。  体中の筋肉が硬直したように動けないでいると、スマホは急に静かになった。  心臓が破裂しそうなくらい脈を打ち、スマホに伸ばす手が震える。 「もう、鳴らない、よね」  確認するように声に出す。そうでもしないと、怖くていられない。  手に包まれたスマホは静かに沈黙している。  ふうと息をつき、部屋へと戻る。  どうして、あいつから電話が来たのか分からない。  どうして、なんで。  悪い癖で、同じことを考えてしまう。何も生産性はないというのに。 「あーダメだダメだ」  このモードに入ってしまうと、もう何も手につかない。 「寝る」  スマホは、テーブルの上に置いたままにした。  何も持たずにロフトへと上がる。いつもよりもはしごが軋む。 「おやすみ」  布団に潜りこんで、目を閉じる。  寝るという行為は面白い。気がつくと、もう朝なのだから。 ※ ※ ※  どうしてあいつが無視をしたのか分からない。  どうしてあいつが舌打ちをしたのか分からない。  どうしてあいつに嫌われているのか分からない。  だから、怖い。  分からないものほど怖いものはない。  原因が分かっていれば、対処のしようがある。  性格が気に入らないなら、直すこともできる。  嫌なら嫌って言ってほしい。  心の中で思いながら、口には出せなかった。  そんな自分が嫌で、自己嫌悪。  自分のどこがいけないのか、短所ばかりを考え続けた。  中学を卒業して、あいつとは離れることができた。  でも、高校生になってからは、友達という友達を作ることはなかった。  友達の作り方も忘れてしまった。  友達というのが、どういう存在なのかも。 ※ ※ ※  ふと目が覚めて、トイレに行きたいと思った。  でも、動くのはめんどくさい。  でも、トイレに行きたい。  結局、起き上がるしかない。 「ううん」  低い天井に当たらないように、小さく伸びをする。そのまま布団の足の方に飛び込むようにして、小さなカーテンを開ける。  一瞬、そのままの体勢で寝かける。 「ん」  寝落ちする前に気付いて、もぞもぞと身体を反転させる。  はしごを慎重に降りていく。一度、踏み外して落っこちた時の衝撃と恐怖はもう味わいたくない。  テーブルの横を過ぎ、カーテンを開ける。こっちの窓からは青空が綺麗に見える。すりガラス越しに見てもわかる青空。 「んんー」  もう一度、大きな伸びをする。  ふと、昨日の夜のことを思い出して、肩越しにテーブルを振り返った。  スマホは沈黙を守っている。  無駄に静かに歩いて、スマホに近づいていく。内心、びくびくしながら。  そっとスマホに手を伸ばしたけど、何の反応もない。  ほっとして電源を入れると、1件のメッセージ。  あいつから。 「なんで」  ──どういうつもり。  ──なんで今さら。  あの頃を思い出して、頭が熱くなる。 「無視、だよね」  スワイプして、メッセージを見なかったことにすればいい。  気づかなかったことにすればいい。  でも、気になってしまう。  画面に向けて突き立てた人差し指が震える。  ギュッと目をつぶって、メッセージを、タップした。  パスワードは、見なくても打てる。  薄目を開けて、メッセージを確認する。 『お世話になっております。』  あいつの母からだった。 『娘は、昨夜、交通事故に遭って、亡くなりました。』  心が、白く塗りつぶされた。 『今まで、ごめんなさい。娘があなたのこと、いじめてたみたいで。』  ぺらぺらの文字の向こうで、泣いているあいつの母親の顔が思い浮かんだ。 「死んだ」  声に出してしまえば、どこか乾いて聞こえた、死。  この小さな画面で、あいつの死を知った。  なんだか間抜けで、馬鹿らしい。 「嘘だろ」  メッセージは、それ以上何も告げない。  何も送り返せずに、そっとスマホを、置いた。 ※ ※ ※ 『すみません、体調が悪いので休みます』  会社にメールで連絡すれば、このご時世だからか、『無理しなくて大丈夫ですから、ゆっくり休んでください』と返ってきた。  体調が悪いのは、事実でもある。  あいつの死を知ったのが一昨日の土曜日。昨日は結局、何もできなかった。  あいつの死を知って、悲しんでいる自分に、正直、驚いた。  いじめられていたのかどうか、分からない。  嫌われていたという方がしっくりくるようなことをされていたのは、確かだけど。  嫌なことをしてきたあいつに対して、死ねばいいのにと思ったことは、正直、何度かある。  あいつのせいで、根暗で、すぐに憂鬱になる今の自分が形作られた。  憎むべき相手なのに、どうして死んだと聞いて悲しいのだろう。  葬式の日程は、昨日、メッセージで送られてきた。  でも、行かないことにした。  だって、嫌ってたやつがきても、嬉しくないでしょ?  だから、今日はあいつを弔う日。  今日も青空。  近くに公園があるから、そこであいつの愚痴を吐き出しながら、酒でも飲もう。  さっさと着替えて、髪を梳かして、掃除機をかけて、財布とスマホと鍵を手に、靴を履いて、外に出る。  まだ少し肌寒いけど、どうせあったかくなるんだから、上着はいらない。  コンビニで朝飯と昼飯、それから酒をたくさん買い込んで、公園へ行こう。  今日はあいつを弔う日にする。  そして、あいつを弔う日、最後にする。  鍵をかけて、つま先をとんとんとして、靴を馴染ませる。  どんな愚痴を言ってやろうか。  どんな罵詈雑言で罵ってやろうか。  少し楽しくなってきたのに、どうしてか涙が流れる。  多分、嫌いにはなれない。  憎むことも、できない。  ──人を憎むって、難しすぎるだろ。  ため息をついて、空を見上げる。  抜けるような青空。  その向こうに、あいつはいった。 「天国で再会とか嫌だな」  そっと歩き出したけど、あの空の向こうからあいつに見られているのだと考えると、ほんの少し、ぎこちない歩き方になった気がした。
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