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空飛ぶ海月
屋上へと続く階段は、薄暗くてじめじめして、今にも何かが出てきそうだった。
人通りの少ない場所ではあるが、誰にも気づかれないように静かに足を進める。
ずきずきと痛む右の脇腹を押さえながら、上履きがキュッと音をたてないように、慎重に上っていく。
一歩、また一歩。
踊り場で振り返って、また上る。
目の前に迫る扉に手を伸ばして、開けた。
ふわっと外の風が舞い込んできて、太陽の光が目を突き刺す。
反射的に目を閉じると、闇。
闇から逃げるように慌てて目を開くと、コンクリートが広々と続いていて、四方をフェンスが囲んでいた。
ゆっくりと屋上に足を下ろすと、何だか解放されたような気がする。
大きく伸びをしようと手を上に上げた瞬間、右の脇腹が抗議をするように痛み始めた。
伸びは諦めて、抗議の声をあげる脇腹を押さえる。
「ふう」
小さく息をつく。あまり大きなため息をつくと、脇腹がまた痛むから。
あやすように痛む場所をさすりながら、フェンスの前へと歩き始める。
この開放感が、僕を支えてくれている。入ってはいけない場所に自分はいるのだというスリルも、同時に味わうことができる。
フェンスに背中を預けて、空を見上げる。
「このままフェンスが壊れたら死ねるのかな」
そう口に出すと、「死ぬの?」という声が聞こえた。
声の方を向くと、向かい側のフェンスによじ登る女子の姿が見えた。
「え、さっきまで……」
「いたよ。ずっと見てた。君がこっちを振り返らないから、何も言わなかっただけ」
彼女はまるで僕の心を読んだかのようにぺらぺらと話した。
「何してんだよ」
「初対面の人に対して随分乱暴な口をきくんだね、君」
「別にいいだろ」
吐き捨てるように言うと、彼女は楽しそうに「あはは」と声をあげて笑った。
ひとりになりたくてここへ来たのに、ひとりになれないじゃないか。
僕は大きなため息をついてしまい、また右の脇腹が抗議をする。
「大丈夫?」
「放っといてくれ」
引き攣ったような情けない声しか出せず、そんな自分に腹が立つ。
彼女は「ふうん」というと、フェンスの一番上まで上がっていった。そのまま一番上でフェンスにまたがると、空に手を伸ばして二回拍手のように手を叩いた。
それから、「こい~こい~」と言いながら、この街を取り囲むに向かって手招きをした。
それを、僕は黙って見ていた。
彼女の表情は真剣そのもので、その手招きをする指先は、本当に何かを吸い寄せるかのように見えた。
「何してんだよ」
よく分からない儀式を終えた彼女に声をかけると、「海月を呼んでるの」と言った。
「海月?」
「うん。海月」
「どういう意味だよ、それ」
「知らない? 空飛ぶ海月の都市伝説」
途中まで下りてきたフェンスからぴょんと飛び降りると、僕のいる方へと歩いて来る。
「海月が、空を飛ぶの。ただそれだけ」
「なんだよ、それ」
彼女は僕のすぐ横に腰を掛けると「都市伝説だけど?」と笑って言った。
「海なし県に海月がいるわけないだろ。というか、そもそも海月が空を飛ぶわけない」
「そうやって頭ごなしに否定すると、頭の凝り固まった大人になるよ」
紺色のスカートについた汚れを払いながら、彼女は続ける。
「青空は大海原を写した鏡なの。ほら、見てごらん」
そう言って、人差し指を空へと向けた。
僕もつられて空を見上げる。
雲一つない、快晴。
「絶対に来る」
真っすぐな声が、僕の中に響いた。
「わけ、分かんねえよ」
一テンポ遅れてそう言うと、彼女は笑った。そして、
「空飛ぶ海月はね、願いを叶えてくれるんだって。何か、願い事ある?」
僕の言葉を無視するように言った。
「願い事?」
「そう、願い事。叶えてくれるの、海月たちが」
ふと、僕の頭の中に浮かんできたのは、僕をいじめてくるやつらの顔。今日、校舎の陰で僕の脇腹を蹴ってきた古谷の顔と、その取り巻きたちの気持ちの悪い笑顔が、頑固な油汚れのように僕の頭の中にこびりついた。
「ないことはない」
「あるならあるって言えばいいのに」
彼女が笑うと、古谷たちの顔は消え去った。彼女の声と笑顔は、僕の中の黒い塊を吹きとばしてくれるような気がする。
「あ、笑った」
「え?」
「あ、戻った」
気がつかないうちに笑っていたらしい。
「もう一回笑って」
そう言われても、笑いかたが分からない。
ふと、笑ったのはいつ以来だろうかと考えた。
「ほら、難しいこと考えないで」
「笑い方、」
「分からないの?」
僕は情けなく頷いた。
「そっか」
彼女は笑わなかった。
チャイムが聞こえてきて、隣に座る彼女は「戻らないの?」と言った。
「戻らない」
きっぱりと僕は言った。
「ふうん、サボりだ」
立ち上がった彼女は、また向かい側のフェンスへと歩き出した。
そのままフェンスをよじ登って、あの儀式を再開する。
「こい~こい~」
馬鹿だなと思ったが、ふと、本当に空を飛んでいる海月たちを想像して、見てみたいなと思った。
「こい~こい~」
結局、この日、海月が来ることはなかった。
× × ×
捻った足首がずきずきと痛い。
一段一段、右足を引きずるようにして慎重に上っていく。
まさか、階段から落とされるとは思っていなかったから、完全に油断していた。
下手したら、死んでいたかもしれない。でも、あいつらはうずくまる僕を見てにたにた笑っていた。
あの笑顔を思い出すだけでも吐き気がする。
踊り場で一息ついて、屋上へと続く扉を見上げる。
今日もまた、いるのだろうか。
そう言えば、名前を聞いてなかった。
また一段一段、慎重に上っていく。
扉を、体当たりするようにしてどうにか開ける。
外の風が僕を押し返すように吹き込んできて、一瞬、太陽の光に目がくらむ。
目が光に慣れてから、ゆっくりと左足から屋上へと出る。
そのまま、壁を伝うようにして顔を覗かせると、そこには彼女がいた。フェンスの上で、儀式をしている。
「こい~こい~」
見れば見るほど滑稽な姿だ。でも、目が離せない。
僕の気配に気づいたのか、彼女が振り向いた。
「どうしたの?」
その視線は僕の右足を向いている。
「いじめられたの」
口調を真似して答えると「ふうん」と興味無さそうに言った。
「儀式、続けて」
「うん」
彼女はフェンスの上で「こい~こい~」と念じ始めた。
僕はずるずると足を引きずって、初めて会った時と同じように、フェンスの前に座り込もうとした。
でも、重心の置き方が上手くいかず、ガシャン、とフェンスが鳴った。
彼女は振り返って、僕の方を見た。
「ごめん、続けていいよ」
呻きに近いような声で言うと、痛みに、脂汗が流れた。
彼女はそんな僕を観察するようにじっと見て、そのままフェンスを降りてきた。
ぴょんと跳ねるようにしてフェンスを降りると、僕の元へとやって来る。
「ここの床、冷たいから、それ脱いで冷やしたら?」
「脱ぐのも大変なんだけど」
「ふうん」
彼女は僕の横に腰を下ろして、コンクリートの質感を確かめるようにペタペタと床を叩く。
「あのさ、願い事って、何?」
「願い事?」
「うん。海月が、願い事を叶えてくれるんだろ?」
「そう」
「だから、何か願い事、あるんだろ?」
「うーん、そうだなあ……」
「そうだなあって、願い事ないの?」
彼女は何かを企んでいるかのように、僕をにこにこと笑いながら見つめた。
「何?」
僕は声が上ずらないように気をつけながら、慎重に声を出す。
「君と、二人だけの世界になってほしい」
「え?」
彼女はふふ、と笑って、跳ねるように立ち上がると、また向かいのフェンスへと歩き出した。
紺のスカートが、風に揺れる。
長い黒髪が、風に揺れる。
振り返ることもなくフェンスによじ登って、彼女は儀式を始めた。
顔が、熱くなる。熱を持った右足よりも。
海月は、今日も来ない。
× × ×
「海月が来る」
夜、電話が来た。
僕は母に、友達がレストランで財布忘れたことに気づいたらしいからちょっと行ってくる、と言って、家を飛び出した。
暗い夜空を時々確認しながら走り続けたが、海月らしき姿は見えなかった。
高校について、校門をよじ登り、校舎裏に回って、鍵の壊れている扉から誰もいない校舎へと足を踏み入れる。
セキュリティシステムに引っかからないように、気をつけながら廊下を進んだ。
階段を上り、屋上へ。
静かに扉を開け、反対側を覗き込む。
彼女は、またあの儀式をしていた。
何と声をかけようか、迷う。
来たよ、と言うのも、おい、と言うのも違う。
考えてみれば、僕から声をかけたことはなかった。
名前、と咄嗟に思って、名前を聞くのを忘れていたことを思い出す。
そわそわと落ち着かなくて、僕はそのまま彼女の元へと歩き出した。
ズズっと足をする音で、彼女は振り向いた。
「山の向こうが光ったから、絶対来る」
まっすぐに伸ばしたその指の先には、何も見えない。
満天の星空の下、高校の屋上、海月を呼ぶ女子高生。
「光ると、海月が来るの?」
「分からない。でも、いつもと違うから、来る」
「いつもって」
「夜もこうして呼んでるの」
「マジかよ」
つい驚いて、声が大きくなった。
シー。
彼女は眉をしかめて僕に批難の目を向ける。
片手で「ごめん」と謝る。
ふと、山の向こうが白く光った気がした。
「来る」
その言葉を合図にしたように、一匹の海月が姿を現した。
巨大な、一匹の海月。
その後を追うように、何匹も何匹も姿を見せた。
夜空に身体を透過した海月は、僕の頭上へとやって来ると、ふわふわとその場でとどまった。
「やっと、来てくれた」
次の瞬間、彼女の身体が薄っすらと光を帯びた。
「え?」
「お迎えだよ」
「お迎えって……」
「私、海月なの」
直の身体は、夜の空気に溶けていく。
「願い事、私、叶えてあげるから」
頭まで溶けきると、一匹の海月が、突然夜空に現れた。
「……ふたりだけの、世界がほしい」
次の瞬間、朝日が山の向こうから顔を出した。
まだ、日が昇る時間ではないのに。
「あのさ」
後ろから、声がした。
「本当に、願ってくれたの?」
「うん」
ふたりだけの世界。
ふたりは熱い抱擁を交わした。
静かな世界に、朝がやって来る。
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