森の中

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森の中

 逃げるようにして、僕は森の中へとやってきた。  何から逃げているのか、よく分からない。  都会の喧騒、つきまとう時間、生きること。全てに疲れた。  この森の中には、僕の尊敬する人が住んでいる。小さな家を建てて、一人で、悠々自適に。  僕は彼の家へと続く道を歩く。  まるで木のトンネルだ。両側には立派な木が等間隔で並び、頭上を青々とした葉っぱで埋め尽くしている。  遠くから、電車の音がする。どこか現実味のないその音も、気づけば静まり返っている。  聞こえるのは、鳥の声、風の音。  時計もスマホも持たずに歩いていると、時間の感覚が分からなくなる。  長いこと歩いていた気もするし、すぐに着いた気もする。  小さな家が見えてきて、その前に、小さな車も止まっている。黒い小さなその車は、邪魔してすみません、と森の生き物たちに遠慮をしているようにも見えた。  僕は真っすぐに玄関に向かって、インターホンを押す。  ピンポーン  静かな家の中を、パタパタと走る音が聞こえてきて、扉が開いた。 「あれ、どうしたの?」  エプロンが絵具で汚れているところを見ると、新作を描いていたのかもしれない。 「まあ、とりあえず入って」  黙って立っている僕を、彼は引き入れた。 「どうぞ」  お茶を出されて、一口飲む。  彼はまだ何も言わない僕を見て、静かに笑った。  急かさず、ただ待ってくれる。それが心地よくて、ここに来てしまう。  彼はそのまま、窓際のキャンバスに向かう。油絵を描いているらしい。独特の匂いがここまで届いてくる。 「あの」  僕が口を開くと、彼は僕の方に身体を向けてくれる。  ──何でも聞くから、何でも言って。  そう言っている気がして、気づくと僕は泣いていた。  彼はそっとパレットと絵筆を置くと、僕の向かい側に座った。 「ごめんなさい」 「どうして謝るの?」 「急に……来てしまって」  彼は本当に驚いたように目を丸くした。 「そんなこと、考えなくていいのに」  そう言って、僕の両手を、大きな手で包み込んでくれる。  温かさが伝わってきて、また涙を押し出す。 「どうしたの?」  慈愛に満ちた穏やかな声に、僕はぽつりぽつりと話し出す。  僕、あの街が苦手なんです。うるさくて。電車の音も、隣の部屋の音も、上の音も、バスの音も、何もかもが嫌になって……。時間もずっとくっついて回るし、急かされてるような気がして……。  つっかえながら話す僕を、小さな相槌を打ちながら待ってくれる。 「もう、生きるのにも、疲れました」  立ち上がった彼は、話し終えた僕を、そっと抱きしめてくれた。 「それは辛かったね。ひとりで頑張ったんだもんね。偉いよ」  僕はなりふり構わず彼に抱きついて泣いた。 「いいよ。泣けるのは健康な証。泣きな」  ほんの少し、彼のエプロンを濡らしてしまうことに罪悪感はあったけれど、涙は止まらなかった。  帰り際、彼は僕に、ポストカードを一枚渡してくれた。 「これ、僕の新作。ネットでも買えるけど、あげる。余ってたから」  そこには見たこともない鳥が描かれていた。羽には赤や黄色、青色など、様々な色が使われていて、一見すると、南国にいるような鳥にも見える。 「僕の描いた鳥。かわいいでしょ」  満足そうににこにこと笑う彼を見ていると、僕より年上には見えない。  美術大学を卒業してから、画家として活動を始めた彼は、今年で30になるはずだった。僕の5つ上の先輩。  でも、こうしてみると、20代か、下手すれば10代後半に見える。 「またいつでも来ていいからね」  彼に送り出されて、僕は来た道を戻る。  不思議な人だ。まるで妖精のような人。  彼は僕の姿が見えなくなるまで、見送ってくれた。  木の陰に隠れて見えなくなる瞬間、僕は後ろを振り返って一礼をした。  感謝を込めた一礼。  それに気づいたのか、彼は一層大きく手を振った。
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