暗盤

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 なぁ、聞いてくれ。いや……手は止めたままでいい。  俺な、会社を辞めたんだ。早期退職ってヤツだ。女房には『気でも狂ったか』と言われたけれど、普通のサラリーマンの何倍も稼いできたつもりだしよ。家長の責任ならもう充分に果たしてこれたと思っている。  金は……必要だよ。この世界ではさ。  でもよ、それは俺にとって手段であって目的じゃなかった。どんだけ銀行残高の数値が増えたところで達成感はなかった。だから、なるべく残高や給与額は見ないようにしてきたよ。そうした方が純粋に仕事へ打ち込める気がしてな。  なぁ、お前の次の一手を当ててやろうか? 『2七角』だろ? 違うかい? ……ああ、やっぱり。来ると思っていたよ。それがこの局面の最善手だからだ。お前はそれを外したりはしない。……安心したよ。  そして、そこまで分かっているのなら、もうこの続きがどうなるのかも分かっているんだろ? だから手を止めた……違うかい?  そうだ、ここから32手先で俺が王手を打つ展開になる。……逃げられる手は、無いんだ。お前が自分を捨てて『奇手』に出ない限りな。  だが『それ』はお前の将棋じゃない。そうだろう?  はは……お前はそこに辿り着くのに何年掛かった? 5年か? 10年か? いや……出来れば30年と言って欲しいな。だって俺がこの手順に辿り着いたのは、たった1週間前だからだ。  呆れるだろ? 俺の頭の悪さにさ。まぁ……仕事が忙しくて考える時間が短かったという事にしておいてくれや。  なぁ、覚えているかい?  俺たちが共に暮らした日々の事を。  約束したよな? 今はこうして薄暗いアパートの一室で虫みてーに転がってる二人だけども、いつかは世界を驚かすような仕事をするんだ……て。そう語り合ったよな? はは……何しろ夢を語るのはタダだからさ。  あの時……俺がお前に新しいビジネスの手伝いを頼んで、お前が『それでは世界は驚かない』って、世俗に塗れるのを嫌った時だよ。  俺はお前に勝負を挑んだよな? いつもの『暗盤』で。  お前が勝てば、俺はビジネスを諦める。俺が勝てばお前が俺の手伝いをする……そういう約束だっただろ?  ヒリヒリするような勝負だったよな。何しろ今まで何かを賭けたことなんてなかったからさ。  結果は『時間切れドロー』だった。  いや……決着を付けられない勝負だったんだと思う。  俺な、もう一度夢を追いたくなったんだ。  いや……最近になってからじゃぁない。心の中ではずっとそれを考えていたんだと思う。けど、それは俺単独じゃぁダメなんだ。お前が横にいなければ!  けど、あんな別れ方をしたしよ。  それでも尚と言うのなら、何が何でもお前にこの勝負の続きで勝つしかねぇと思っていたよ。……ああ、その思いは年々強くなっていた。だから、ここ最近は寝てる時でも夢で盤とにらめっこをしていたな。はは……おかしいだろ?  さぁ……黙って敗北を受け入れろ。これは30年前に決まっていた運命なんだ。そして約束通り俺と一緒に戦ってくれ。  先の見えねぇ、全くゼロからの新しい仕事があるんだ。  一緒に世界を、驚かそうじゃないか。 完
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