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【小野和花】 一九六一年五月十四日
目が覚め、いつものように朝の支度をして、母の仏壇の前で手を合わせて朝の挨拶をする。
母の墓はなく、それどころか母に関係のあるものは何一つとして残っていない。今私が挨拶している仏壇も、先生が買ってきてくれたもので、遺影の一つも飾られてはいない。
ふと近くのカレンダーが目に移った。そういえば今日は母の日だったことに気がついた。
今日くらい先生にお願いして花を大量に買ってきて飾りつけようか。そんなことを考えながらぼんやりと仏壇を眺めていると、いつもは起こさないと目覚めない先生が珍しくも自力で起きて、私のいる部屋に顔を出した。
「おはよう、和花」
「おはようございます、先生。珍しいですね、先生が一人で起きてこられるなんて」
まだ眠たいのか先生は一つ欠伸をして目を擦ると、居間に向かって行く。
「……ん、なんとなくな」
「なんですかそれ」
曖昧な先生の返答が可笑しくて少し笑いながら、私も先生の後について居間に向かった。
私が先生と呼んでいる人は、佐伯紬先生。村の風習などを題材とした物語を執筆するそこそこ有名な小説家である。先生は自分の名前が女らしくて好きではないそうで、名前で呼ぶと嫌がるため、私は先生と呼んでいる。
「和花、学校は大丈夫なのか?」
「今日は日曜日ですよ、先生」
「そうか」
居間に着くと、先生は既に私が朝食を準備しておいた食卓につき、しかし食べようとするでもなく無精髭を撫でながらぼんやりと何かを考えている。
「今日くらいは一日じっくりとあの人のことを考えて過ごしてもいいかもな」
あの人とは私の母のことで間違えないだろう。いくら私がいなければ私生活が壊滅的で、今日が何曜日かさえ覚えない先生でも、日曜日と聞いて今日が母の日であることくらいは分かったのかと、失礼なことを思う。
「顔に出ているぞ」
「なんのことでしょうか」
表情で先生に考えを読まれたらしく、咄嗟に微笑んで誤魔化す。先生は小説の取材として各地にある辺境の村に訪れることが多く、情報収集や自身の危機管理のために、相手の考えを読むことに長けているのである。
「まあいい、今日くらい俺が家のことをするから、和花はゆっくり休むといい」
「それは駄目です、先生」
先生の優しさに嬉しく思いつつも、無茶な提案を即答で却下する。そんなにかと少し落ち込む先生を眺めながら、私は母のいた頃へと思いを馳せるのだった。
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