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化かし合い
「お母さん…怖いよ…」
優弥の声で私は目が覚めた。昼間に寝ないと体が持たないのに、全くこの子はもう、私の邪魔ばかりして。養育費をしらばっくれ続ける、忌々しい元夫と眉根を寄せた顔がそっくりで、余計に腹立たしい。
「どうした、またお化けの話?」
小学校二年生になっても、まだまだ幼いこの子は、私にとって男の同情を引くツールだ。道具は大切に使わなきゃね。
「うん、また新しいお化け。早く出ていってほしいから、お母さん、ママ、初美さんって少しずつ怖がらせてるのに出ていかないの」
「このマセガキ。年上の彼女でも出来たの?ママのダーリンがお家に来たら、お名前にさんつけて呼ぼうね。ママがよしって言ったらパパって読んで最後はお父さんだよって教えたのを、真似しやがって。15年早いよ」
私は煙草に火をつける。すると優弥が、
「違うよ。ママは見えないし聞こえないからいいかもしれないけど、学校で僕の家、なんて言われてるか知ってる?」
「優弥…学校でいじめられてるなら、そいつらまとめてしばいてやる。学校の誰?」
「登校班でもママが怖いって言われてるのにやめてよ。僕の家は幽霊屋敷って言われてるし、それは僕も見てるから本当。いじめられてないよ。みんな肝だめしに遊びに来るし」
「なんだ、優弥は人気者か、よかったね」
「もういいよ、ママは何もわかってない。僕が自分でお化けは追い出すから」
「おう、頑張れよ、ゴーストバスター」
私は何度も付き合わされている、優弥のお化けのお話に適当に返事を返して、店に出勤する身なりを整え始めた。
若草色の深いスリットの入ったドレスに身を包み、ファンデ、アイライン、アイシャドウ、仕上げはベージュピンクのリップ。ムスクの香水を手首の内側につけて匂いの強さを確認する。香水に気を取られている隙にお気に入りのデパートコスメのベージュピンクの口紅を、優弥がひったくる。
そして、優弥の子供部屋にしている洋室の壁の白いクロスに落書きを始めた。
「コラ!このリップ高いんだからね!」
優弥の手から口紅を取り上げたその瞬間…。
白い壁に、
「でていかないところす」
ひながなで書かれた文字を見て、私は優弥の頭をゲンコツでひっぱたく。
「お化けごっこ、もう飽きてるからね!」
私が不機嫌な声で言うと、優弥はむくれた顔で洋室の引き戸の先に続いたリビングの、その先にある玄関の青い扉を指差す。
誰もいないのに、勢いよく外開きのドアが開き、突風が吹き抜けた。そして、私は初めて聞いたのだ。
「私はお母さんじゃない…もう出ていく!」
中年女性のしわがれた声が確かに聞こえた。全身の皮膚に鳥肌が立ち、この2LDKのアパートの家賃が四万円ポッキリという破格の安さのからくりを知った。
優弥は母親の気を引きたくて、嘘をついてるんじゃなかった。本当に幽霊が出るのか。洋室のカーペットの上に、へなへなと座り込んでしまい立ち上がる気力が出ない。
優弥は、子供向けアニメを見せるために使っているタブレット端末を器用に操作して、リアルタイムのテレビ番組を開いて見せる。
「先月、T県で起きた、山脇延吉さん初美さん夫婦が強盗によって刺殺された事件ですが、犯人が逮捕されました」
午後のワイドショーでお馴染みの男性司会者の声。
「このおじちゃんとおばちゃんは殺されたから、もう一回殺すって書いたら怖くなって逃げた、もう大丈夫だよ、ママ」
子どもの浅知恵の辻褄を合わせにも思えた。しかし、女性コメンテーターの発言を聞いて、背筋が寒くなった。
「山脇さん夫婦は、T県内のU市からO市への引っ越しを翌日に控えていたそうですね。引っ越し準備をしているという所に目を付けられたんでしょう。引っ越しで最後まで荷造りしないものは、現金ですから。皆さんも気をつけて」
このO市に引っ越してくる予定だった?優弥は、震える私の背中に抱きついて、
「大丈夫。どんな幽霊も僕が退治して、ママを守ってあげるから」
無邪気に笑う。男の同情を引くツールとして、ときに利用し、ときに疎ましく思っている血を分けた息子。
この子が見えているのは幽霊だけなんだろうか?
まさか私の心の中まで読まれているのだろうか?
私はぎこちなく、息子を抱きしめてから、店に出勤するためにハイヒールを履いた。すると、息子が今までにないような、ずる賢い目付きで笑った。
「お母さんはキョーハンだから怖くないよ。リヨウしてるのはオタガイさま。僕はお母さん大好き」
キョーハン、共犯ということか。私の思っていることの猿真似なのか、難しい言葉は滑舌が悪い。やはりこの子が見えるのは、幽霊だけじゃない。私のどす黒い本音を読み取っている。なんていう子を産んでしまったんだろう。自分を裏切るなら殺すという脅しにも聞こえる。
玄関のドアノブに手を掛けた私に、優弥が可愛いらしい声で問いかける。
「ツールってどういう意味?」
「道具って意味だよ、お互いにな」
私は息子を振り返らずにヒールの踵を鳴らして、コートを羽織って駐車場へと階段を降りた。送迎の車がそろそろくるはずだ。
客の腹を読むのに、優弥の力が使えるかもしれない。収入、趣味、嗜好品など。水商売で効率良く稼ぐには、優弥の能力は役に立つ。
子どもの第六感は成長と共に失われていくと、客の一人が得意そうに話していた。優弥が私を切り捨てるのが先か、私が優弥を切り捨てるのが先か。これじゃあ、まるで化かし合いだ。
幽霊なんかより生きてる人間の方が恐ろしい。
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