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お母さんと呼ぶ声
転勤族の宿命、それは引っ越し。最近の引っ越し業者の人手不足のせいで、引っ越し業者の値段は高止まり。三月の引っ越しシーズンには引っ越し難民が出るほど、引っ越しは今や、難易度の高いプロジェクトに成り果てた。
そこで転勤族で引っ越し慣れしている我が家は、自力引っ越しという強硬手段に出た。夫婦二人暮らしなので荷物もそれ程多くはない。元々引っ越し業者には、洗濯機と冷蔵庫、折り畳みベッド二つ、夫が使う書斎机と椅子だけを頼んで、一番安いプランで引っ越しを繰り返してきた。
引っ越し業者が確保出来ない、もしくはトップシーズンで高額な場合なら、大物家電は買い換えた方が得になる。大物家電を処分して、夫の書斎の机と椅子も新調、折り畳みベッドは車の後部座席を倒してそこに収納して運ぶ。
衣服、調理器具などは段ボールに詰めて宅配便で荷物として新居に日付指定で送る。我が家の引っ越し計画は完璧なはずだった。
新居は二階建て賃貸アパートの二階、2LDKで四万円ポッキリ、駐車場一台無料、二台目は五千円で借りられるという、北関東では破格の家賃。東京まで在来線で一時間、最寄り駅まで片道徒歩18分。たった一部屋の空き部屋に運良く滑り込んだ。しかも角部屋、日当たり良好。
ところが、自力引っ越しを試みた当日から、異変が起きた。折り畳みベッドと布団だけを自家用車で新居に運び込んだ。私と夫は、ガス、水道、電気などの様々な手続きを済ませて、コンビニで買ってきたご飯を食べていた。まだ宅配便で荷物が届かないので、調理器具がないので買い食いでしのぐ。
「お母さん…またコンビニのご飯なの?」
キッチンのすぐ後ろにあるダイニング。更に奥にある洋室から幼い男の子の声が微かに聞こえた。夫はおにぎりを喉に詰まらせそうになって、激しくむせた。私は夫の背中を叩きながら、声がした洋室から目を逸らす。落ち着いてきた夫が、私にひきつった笑いを見せて、
「どういういたずらだよ?俺の部屋に何か仕掛けたろ?」
これがドッキリ番組のような、仕掛けであってほしい、頼むよとでもいいたそうに懇願するような目で見てくる。私はてっきり夫のいたずらだと思っていた。この怖がっている素振りすら演技ではないかと疑い、
「仕掛け人はそっちでしょ。さっき自分の部屋にいたじゃない?スマホで何か音が出るようにしたんでしょ」
私は家電に詳しい夫の悪戯だと思いたかった。
「そんな訳ないだろ?スマホはここにあるし、ラジカセは宅配便にしたから」
夫がTシャツの胸ポケットからスマホを取り出す。すると、また洋室から声が響いてきた。
「お母さん、スマホ楽しい?それより遊ぼうよ…ねえ…」
私は地べた座りで食べていたお弁当を取り落として、夫にしがみつくように抱きついた。夫も、私の悪戯ではないと悟って、しっかり抱きしめてくれる。洋室の引き戸がズッ、ズズーっと開く音がする。
「助けて!」
洋室から出てくる何かに怯えて私は絶叫する。夫は私より更に大きな声で、
「悪霊退散!南無阿弥陀仏!安らかに眠れ!」
胡散臭い霊媒師のような適当な呪文を唱える。
怖すぎて私は目を瞑っていた。すると、
「お母さん…ごめんなさい…男の人といるときは開けちゃダメなんだよね…」
すすり泣く男の子の声がして、立て付けが若干悪い引き戸が、引きずるような音を立てて閉まる気配がする。夫は、私の両肩を揺さぶり、
「おい、消えたぞ、男の子の幽霊…」
男の子に遠慮するような、囁くような声で私な耳打ちする。私も声を潜めて、
「家賃四万、個室六畳が二部屋、リビング六畳、キッチン二畳って条件良すぎると思ったら、幽霊付きってこと?」
夫は頷いて、
「事故物件検索サイトに載ってないから大丈夫だと思ってたのに、心霊物件かよ」
大きな溜め息をつく。
こうして心霊物件で、新生活がスタートした。
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