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「行ってらっしゃいませ、旦那様」
黒の山高帽と、ヌメ革の旅行鞄を手渡す。私より頭二つ分ほど背の高い旦那様は、それらを受け取ると黙って頷きを返してさっと馬車に乗り込んだ。馬車の行き先は聞いていないが、大体察しはついている。
「旦那様、きっとまた熊谷のお妾さんのところへ行くんだわ」
「あらまあ、先月も行ったばかりなのに。よほどお気に召してらっしゃるのね」
「そりゃあねえ。どこぞの賤しい正妻より、きっとお上品で可愛らしいんでしょうよ」
聞こえよがしに立ち話をする屋敷の使用人たちの真横を通り過ぎ、私は逃げるように屋敷の中へと入って行った。
だだっ広い玄関で草履を脱ぎ、板張りの冷たくて長い廊下を抜ける。その途中も何人かの使用人とすれ違ったが、誰一人として私に頭を下げる者などない。恭しい態度で挨拶をしてくるのは、隣に旦那様がいる時だけだ。
でも、彼らを叱る権利を私は持っていない。大地主であるこの狐森家の奥方というのは名ばかりで、実際の立場は使用人たちよりも遥かに下だ。
「あら? あなた、こんな所でなに油を売っているの。お狐様へのお参りは済んだのかしら」
背後から声をかけられ、慌てて立ち止まる。振り返ると、そこにいたのは目を吊り上げた義母であった。
「お早うございます、お義母様。お狐様のところへは、これから」
「これから? 今まで何をしていたの? 本当に愚図な子ね」
「あ……も、申し訳ありません」
「これだから成金の娘は嫌なのよ。愚図で可愛げもないし、その上子供もできないんだから。はあ、何のために嫁いできたのかしらね」
わざとらしく溜息をつく義母に、私は淡々と「申し訳ありません」とだけ返した。
愚図で可愛げがないのは百歩譲って認めるが、子供ができないのは私ではなく旦那様のせいだ。ひと月に一度あるかないか、気まぐれ程度にしか夜の営みが無いのだから、それで子供ができるはずもない。
「ほら、とっとと行きなさい。あなたの顔なんて見ていたくないの」
鬱陶しそうに手を払われ、私は無言で頭を下げてそそくさとその場を後にする。義母と顔を合わせるといつもこんな調子だから、できるだけ避けているのだが、会わなければ会わないで「ちっとも挨拶に来やしない」と叱られるのだ。こんな理不尽にも、三年も経てばもう慣れた。
炊事場へ向かい、漆塗りのお膳に白飯とお水、それから甘く煮た油揚げをのせる。それをこぼさぬようそうっと運びながら、屋敷の一番奥、しんと静まりかえった部屋の襖を開けた。
「お早うございます、お狐様。今日もどうか、狐森家をお守りください」
人気のないその部屋には、豪華絢爛な祭壇だけが堂々と鎮座している。そして、その祭壇の前に置かれているのが、二体の狐の像だった。
その昔、この家のご先祖様が山で怪我をした二匹の狐を助けたところ、二匹はたいそう感謝して「おまえの家を末代まで守ってやろう」と人間の言葉を話したのだという。ご先祖様は、これは神から遣わされた狐に違いないと確信して、家に立派な祭壇を作り二体の狐の像を置いた。
それからというもの、不思議なことにご先祖様は食うに困らず金もどんどん貯まっていき、狐森という名を与えられ、この辺りで一番の長者の家へと成長した──というのが謂れらしい。
祭壇の前に座り、持ってきたお膳を供える。そして、つるりとした陶製の像に向かってお決まりの言葉を口にする。
こうして、お狐様に日参するのが狐森家に嫁いできた者の役目なのだと、この家に来た日に教えられた。
最初のうちは、ただ言われるがまま教えられた通りの作法でこの仕事をこなしていた。むしろ、派手なくせに一切人気の無いこの部屋にどこか気味の悪さを覚えていた。
しかし、ある日を境に私の意識はがらりと変わったのだ。
「──お早う、巴。今日はいささか来るのが遅かったのう。先刻から、横の黒いのが首を長くして待ち侘びておったぞ」
「おい、白いの。出鱈目を言うな」
いつもと変わらぬ二つの声にほっとして、私はこの日初めて笑みをこぼす。
それから、二体の狐の像に向かい、苦笑混じりに今朝の出来事を話し始めた。
「ごめんなさい、白磁様、黒曜様。今朝は、旦那様がご出立なさるのを見送っていたのです。それから、お義母様に捕まってまた嫌味を言われてしまいました」
「そうかそうか、それは可哀想に。災難であったのう」
「あの男、また出掛けたのか」
「はい。今日から一週間ほど、熊谷に滞在なさるそうです」
「はは、また熊谷か。確か、三味線の達者な元芸者の妾がおると言うておったなあ。こんなに愛らしい妻がいるというのに、なんと罰当たりな男じゃ」
向かって左側、淡い月白色のお狐様は、白磁様という。
おしゃべり好きで、のんびりとした口調の白磁様は、私が何を言っても「そうかそうか」と優しく受け止めてくださる。それに、口癖のように「巴は愛らしいのう」とお世辞をおっしゃってくれるから、告げ口じみたことでも白磁様にはつい話してしまえるのだ。
「まあ、我らとしては、彼奴が居らぬ方が巴と過ごす時が増えて嬉しい限りじゃ。のう、黒いの」
「俺に振るな。……だが、おまえは寂しいのではないか? 巴」
向かって右側、深い涅色のお狐様は、黒曜様という。
白磁様とは対照的に、寡黙で堅い口調の黒曜様は、ご自分から話しかけてくることはほとんどしない。最初の頃は特に、私が何か質問をしても「ああ」「違う」くらいの言葉しか返してくださらなかった。
しかし、最近は以前よりも会話に参加することが増えて、時たま私を気遣うようなことまでおっしゃってくださる。傍目には分かりづらいけれど、お優しい方なのだ。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、おふたりがいてくだされば寂しいことなどありません」
「これはこれは、嬉しいことを言うてくれる。なあ巴や、浮気性の当主などよりも我らの方が好きだろう? うん?」
「おい、白いの。変なことを聞いて巴を困らせるな」
おふたりのやり取りを聞いていると、先ほどまでざわついていた心がすっと落ち着くような心地がした。
初めて彼らの声を聞いたのは、いつのことだっただろうか。
そう、確かあれは、この家に嫁いできて一年が過ぎた頃だった。
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