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あの日、機嫌の悪かった旦那様は、夕餉を食べていた私の右頬を唐突に平手で打った。
頬を打つ乾いた音、それにがらがらがしゃん、と食器が散らばる音がしたけれど、私は最初何が起きたのか分からなかった。
「おまえの顔を見ていると苛々する」と吐き捨て、旦那様は足を踏み鳴らしながら広間を出て行った。後になって聞いたことだが、その日旦那様は賭博で負けて大損をしたのだという。つまり、単なる八つ当たりだ。
ひりひりと痛む頬を擦りながら、屋敷の中を行く当てもなく歩いた。
自室には入るなと旦那様に怒鳴られ、食事を摂る広間は後片付けがあるからと使用人たちに追い出された。意地の悪い義母の部屋になど行きたくはないし、外は雪がちらついている。
行き場をなくした私が辿り着いたのは、毎朝お参りをしているお狐様の間だった。
『こんばんは、お狐様。私、行く場所がないから、少しだけここにいさせてください』
そう口にした途端、みるみるうちに両の目に涙があふれてきた。
親の言いつけ通りこの家に嫁いできただけなのに、なぜこんなにもひどい仕打ちを受けねばならないのか。狐森家の人間になろうと努力をしてきたのに、なぜ誰も受け入れてくれないのか。
そうして一年間溜め込んできた涙を止めどなく流していると、暗かった部屋の中が突然ぼんやりと光り始めた。驚いて顔を上げると、どこからか優しいふたつの声が響いてきたのだ。
『巴、といったか。何を泣いている』
『可哀想にのう。どれ、何があったか話してみるといい。我らが慰めてやろう』
声は、祭壇に鎮座している狐の像から発せられていた。
薄ぼんやりと光を放つふたつの像に驚きこそしたものの、その優しい声に促されるように、旦那様に殴られたことやお義母様に詰られたことなどをすべて語り尽くした。
涙のせいで言葉に詰まりながら話す私を、おふたりは急かすこともなく見守ってくれた。あんなにも穏やかな気持ちになれたのは、この家に嫁いで来て初めてのことであった。
「──あの日、おふたりが話しかけてくださらなかったら、きっと私はこの家から逃げ出していました。だから本当に感謝しているんです」
「はは、そうかそうか。あの時は、巴があまりにも悲痛に泣くものだから、ついつい声を出してしまってのう」
けらけらと笑う白磁様とは対照的に、黒曜様は低い声で呟く。
「しかし、あの時から状況が良くなったわけではないだろう。相も変わらず当主は他の女にうつつを抜かして、巴が苦しんでいるのに見向きもしない。あの時逃げていた方が、おまえにとっては良かったのではないか?」
「なんだ、黒いの。珍しくよく喋るかと思えば、つまらぬことを。巴がこの家からいなくなったら、我らの話し相手がいなくなってしまうだろう」
「黙れ。今は巴に聞いている」
黒曜様はいささか強い口調で白磁様の言葉を遮ると、私の返答を待つように口を閉ざした。
あの時、この家を飛び出していたら。私は今頃どうなっていただろう。
「この家から、逃げていたら……旦那様の女遊びを見なくて済むし、お義母様のお小言からも解放されていたかもしれません」
「……そうだろうな」
「でも、そうしたら実家にいる家族が酷い目に遭っていたかもしれない。成金の家だと毛嫌いされているし、狐森家の人たちは何の躊躇いもなく私の家族を傷つけると思います。それに」
一息に言ってから、顔を上げて二体の狐像を見据える。
人の言葉を話す不思議な像。初めて目にした時は不気味ささえ感じたのに、今ではこの前に立つと何より安心できるのだ。
「この家には、黒曜様と白磁様がいてくださりますから。だから大丈夫です」
「……しかし、巴」
「心配してくださってありがとうございます、黒曜様。でも、私が悪いのです。もっと努力すれば、旦那様もお義母様も私のことを認めてくださるでしょうし……おふたりにご心配をおかけしないためにも、もっと頑張りますから」
そう言って胸を張ると、黒曜様はそれ以上何も言わなかった。表情が見えないから本当のところは分からないが、きっと納得してくださったのだろう。
代わりに白磁様が「いつでもここにおいで」と優しく言ってくださったから、私は今日も自分の務めに励めるような気がした。
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