247人が本棚に入れています
本棚に追加
「え? ……やや子?」
旦那様の口から出たその言葉に、私は思わず面を上げた。
「ああ。熊谷のお吟が身籠った。──おれの子だ。夏には産まれるらしい」
にやりと、皮肉げな笑みを浮かべながら旦那様はそう言った。
布団を敷く手を止めるよう言われ、言いつけ通りに旦那様の目の前に正座する。戸惑う私に向かって、旦那様はまた口角を吊り上げながら問いかけた。
「何か、言うことはないのか?」
じっと旦那様の目を見返しながら、私はちっぽけな頭で考えた。
旦那様のお考えは分からない。熊谷のお吟さんといえば、旦那様が前からお気に召していたお妾さんの一人だ。毎月のように彼女の所へ通っていたのは知っているから、やや子を身籠ったとしても何らおかしくはない。
しかし、それをわざわざ妻である私に言う必要があるのだろうか。それに、にやつきながらこちらの反応を窺う理由も分からなかった。
それでも、何か答えなければと必死に考えた末、私はやっとのことで言葉を返した。
「……おめでとう、ございます。お身体を大事にとお伝えください」
うっすらと微笑みながらそう言った私を見て、旦那様の表情は瞬く間に憤怒へと変わった。
間違った答えをしたと私が気付くよりも早く、旦那様の硬く大きな手が私の頬を打つ。乾いた音が響いて、その後鈍い痛みが私を襲った。
「なんだ、その顔は……っ、何が『おめでとうございます』だ!! おれが別の女を孕ませたというのに、おまえは何故笑っていられる!?」
痛む頬を押さえながら、私は驚いて旦那様の顔を見上げた。
これまでも叩かれたり蹴られたりしたことは何度もあったけれど、ここまで感情を剥き出しにする旦那様を目にしたのは初めてだった。
「おれが外で女を作ってきても、何日も屋敷に戻らなくても、おまえは顔色一つ変えやしない! ずっとこのおれを、道端の石でも見るような目で見るだけだ!」
「そんな、ことは」
「黙れッ!! どうせおれの居ない間にどこぞの間夫とでも通じているんだろう!? この売女が!!」
再び、旦那様の手が振り上げられる。立て続けに幾度も叩かれ、口を挟む間もなく罵られるうちに私は反論する気力を失くした。
口を噤んで痛みに耐える私を見た旦那様は、何を勘違いしたのか「やはり男がいるのか」と忌々しげに顔を歪め、私の着物の袷を破らんばかりの勢いで強引に開いた。そしてそのまま、布団も何も敷いていない畳の上に引き倒す。
「どこの男だ? いつから通じていた!? その間夫は、さぞやおまえを満足させているんだろうな! おれとの閨でちっとも反応しないのは、そういう訳だったのか」
黙りこくる私と、居もしない男に怒りをぶつける旦那様の姿は、ひどく滑稽だった。
旦那様を怒らせてしまったことに最初こそ動揺していたものの、彼が怒れば怒るほど私の心は冷めていく。自分は堂々と不貞を働いていたくせに、私が他の男と通じるのは我を失うほど腹立たしいのだろうか。身勝手な言いがかりに、腹の底から怒りが沸き起こってくるようだった。
最初のコメントを投稿しよう!