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「──おや? 巴、その顔はどうした」
行為が終わり旦那様が眠りに落ちた後、私はそっと褥から抜け出し、まっすぐにお狐様の間を訪れた。手酷く抱かれた身体はぼろぼろだったが、今すぐにおふたりの声を聞きたくなったのだ。
祭壇のある一室に入ると、紫色に腫れた目元や、赤黒い血が滲んだ唇におふたりはすぐに気付き、少し驚いたような声音で問いかけてくる。
「あの男にやられたのか」
「なんと可哀想なことを。どれ、こっちに来て見せてみい」
普段は寡黙な黒曜様も、殴られた跡を見て「痛むだろう」と心配してくださった。
白磁様はいつもと変わらぬご様子だが、無言を貫く私に「つらかっただろう」と、慰めるかのように優しく声をかけてくださる。
そんなおふたりの優しさに触れたせいか、乾いた頬にまた涙がつうと伝った。
「よしよし、巴。どれ、何があったか話してみるとよい」
促されるがまま、私は先程起きた出来事をつらつらと語った。語るうちに怒りと恐怖が鮮明に思い出されて、知らぬ間に全身が震えはじめる。それを抑えるように自分の身体を抱きしめながら、なんとか事の顛末を話し終えた。
すると、それまでただ黙って私の話に耳を傾けていた黒曜様が、絞り出すような低い声でぼそりと呟いた。
「これ以上は、我慢ならんな」
その言葉の意味を問う前に、白磁様が小さく笑う。
「ああ、そうじゃのう。そろそろ潮時というやつか」
腫れぼったい瞼を開けて、いつもと変わらぬおふたりの像を見上げる。硝子玉の眼がぎらりと光った気がして、思わず息を呑んだ。
「巴。おぬし、以前に言っておったのう。この家の者らに虐げられるのは、すべて自分が悪いのだと。あの言葉、今でも口に出して言えるか?」
「……それ、は」
「はは、言えぬであろうな。もとより、巴のせいなどではない。おぬしは何も悪うない」
その言葉は、散々傷付けられた私を癒すように心の奥深くまで染み入った。
新たな涙があふれ、私は幼子のようにしゃくりあげながら泣いた。今まで我慢してきた分を取り返すかのように、声を上げて泣き続けた。
「……巴。もう、この家の者のために身をやつすのはやめた方がいい」
「ああ、そうじゃのう。おぬしがつらい目に遭うているのを見るのは、我らとしても胸が痛む。あのような男、とっとと捨ててしまえばよい」
一通り泣き尽くした私に、おふたりは忠告するように言った。
「で、も……この家から逃げたら、家族が」
「ああ、巴が案じておるのはそのことであったのう。確かに、狐森の家に逆らえば、今度はおまえの家族が憂き目に遭うやもしれぬ。しかし、それも瑣末なことよ」
白磁様のおっしゃる言葉の意味が分からず、眉根を寄せる。すると、代わりに黒曜様が口を開いた。
「我らは妖狐。この家の者たちから、おまえの家族を守ることなど容易い」
「よう、こ……?」
「ああ。永き時を生きる間に、我らは力を得た。あとは、おまえの強い思いさえあれば万事うまく収まるだろう」
つまり、私がこの家から逃げたとしても、実家の父母たちは無事でいられる。黒曜様と白磁様が、守ってくださる。
そう理解した途端にふっと力が抜けて、私は冷たい床の上にへなへなとしゃがみこんだ。
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