愛を謳う

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   甘い香りが鼻孔をくすぐり、先生が来たのだと思った時には、僕の心は激しく揺さぶられ、痛い、痛いと叫び始める。  蛍だね。先生はそう言うと、僕の隣に腰掛けて、池の辺りでチラチラ光る夏の虫に、ふと、口元を緩めて見せた。  この唇は、今夜も花に触れ、蜜に濡れ、幾度も鳴かせて来たのだと、僕は確かに知っているのに、目を逸らすことができない理由は、所謂(いわゆる)、蜜蜂と同じなのだと思う。  蛍は、その短い一生を、愛を謳うことで過ごすそうですよ?僕には、それが羨ましいのです。愛を謳うことができる(つがい)がいるというのは、それだけで、孤独ではないということですからね。  僕がそう言うと、先生は(おもむ)ろに僕の頬に触れ、お前には私がいるだろう?と言った。その表情からは、嘘や、冗談や、誤魔化しなどが、少しも感じられず、僕は慌てて身を引いた。  ご冗談はよして下さい。天と地が入れ替わろうとも、先生は決して、僕を愛しては下さらないでしょう?  この身が滅ぶまで、いや、滅んでも、口にするつもりの無かった言葉が、ぽろりと落ちた。途端、後悔の念から頬は火照り、心の臓が早鐘を打つ。  忘れて下さい。小さくそう言うと、先生はまたクスリと笑い、天と地が入れ替わらずとも、私はお前を愛しているよ。それも、他の誰よりもね。お前も知っていると思っていたが、違ったようだ。そう言って僕の髪を撫でた。  そういう意味ではないのです。  では、どういう意味だい?  僕は、蛍の様に、愛を謳いたいだけなのです。  一人で謳えば、心が痛いと泣き叫ぶ。チラチラと、チラチラと、今、この時にも失われゆく時のことなど、少しも惜しくはないのだと、チラチラと、チラチラと、愛し、愛され、愛を謳う、蛍になりたい。  逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり。一度知ってしまうと、もう、戻ることはできないけれど、お前にはその覚悟があるのかい?私に愛されるということは、そういうことだよ?先生は柔らかく微笑んで、僕を見ている。  先生は意地悪だ。出口のひとつも見当たらない、深い深いこの暗闇の中で、永遠に一人で愛を謳うなど、そんなことはできやしない。  今よりも尚、心が痛いと叫んでも、涙が頬を伝っても、僕はあなたと謳いたい……。  先生に与えられる痛みなら、僕の心はどれほどだって、耐えられるのです。だから、お願いですから、僕の全てを愛して下さい。僕の一生は、先生への愛を謳う為だけにあるのです。  先生の唇が僕のそれに触れた時、あぁ、もう戻ることはできないのだと小さく絶望しながらも、伝わる熱のあまりの甘さに、息をするのもすっかり忘れ、ただただ幸福を味わった。  チラチラと、チラチラと、今宵、細く欠けた月の下、闇夜に刹那の——愛を謳おう。 終
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