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【2020/05 邂逅】
《第2週 月曜日 朝》
指定された大学は都心ど真ん中、港区のオフィス街の近くにあった。勤務先の高輪も港区ではあるので署との行き来は楽だし、研修先として妥当だ。
しかし構内に入ってからなかなか目的の法医学教室がある建物が見当たらない。早めに着いたにもかかわらず迷子になった。
教務課のある建物に行って尋ねると、窓口の若い男性に「すみません、法医学教室は多摩キャンパスなんです」と言われた。指定された住所は確かに此処であったため混乱していると、背後から別のやや年重の上司らしき男性職員の方が「藤川先生とお約束の方ですか、長谷さんですか」と声をかけてきた。
「藤川先生だけおひとりでこちらのキャンパスで法医学を担当しています、ご案内します」
案内を受けて構内を進むと、瑞々しい緑に覆われた建物が見えてきた。
「先程はうちの者が申し訳有りません。藤川先生から丁度お見えにならないと教務課に連絡が来たところでした。藤川先生だけは監察医務院と兼任されている関係で直ぐ傍の附属病院内のERやこの地域での異状死の解剖を担当なさっていまして、研究室もこのキャンパスで、授業や指導も遠隔を活用して主にこちらで行っています」
おれは深く安堵するとともに脱力感に襲われていた。初日から行き先間違いなんて理由で遅刻は間抜けているにも程が有る。
「冷や汗が出ました、よかった、間違えたかと思いました。ところでちょっと伺っておきたいんですがよろしいでしょうか」
建物のエントランスでエレベーターを待つ間それとなく訊いてみる。
「はい、如何されましたか」
「うちの上司が藤川先生はちょっと変わった方だと言ってたので…実際どうなんでしょうか…」
職員の男性は軽やかに笑いながら答えた。
「確かに先進的ではあるし非常に意欲的で先生としては良い方ですよ、但、秘密主義的な部分も多いですし変わってるかもしれませんね」
最上階にエレベーターが着き、辿り着いた最奥の研究室のドアを職員の方が複数回ノックすると引戸がすっと少しだけ開いた。
「そんなに叩かなくても聞こえてますよ」
「すみません、遅くなりました。高輪署から来た長谷さんをお連れました」
穏やかな口調の、高すぎず低すぎないやわらかな心地好い声が内側から聞こえた。やがて
隙間から癖のある髪の毛が食み出し、大きな暗く青みのある茶色の瞳がこちらを覗き返してきた。
ゆっくりと引き戸が開き、全容が見える。首元から足の先まで黒衣で覆い、その上からレディースと思われる合わせが逆の白衣を羽織った状態で、その人は立っていた。背は見るからに平均より小さく、体型もかなり華奢だ。
43歳とウェブサイトにはあったはずだが、とてもそうは見えなかった。髭や剃り跡は見当たらず膚も肌理が細かく滑らかで、やはり四十代男性のそれとは思えない。
但、画面上で見たときとは顔立ちも違って見えたので、「あれ、こんな顔だったっけ?」と思った。
目はカーブのゆるい二重、上下とも睫毛が長く、少し目尻が下がっていて微妙に瞼が降りているようにも見え、妙に色っぽい。瞳に睫毛の影がかかり眠そうで、
目の下には薄っすらと隈があり、相応に顔に疲れが滲んでいる。
唇はやや薄く輪郭が不明瞭ながら色がくすんでおらず、小鼻も小さい。えらく整った顔だった。口角は歳のせいか疲れからか少し長くやや下がっているものの機嫌が悪い様子はない。
「あぁ、そうだ先生、やっぱり在室中にカーテン閉じっぱなしにしたり、ドアに施錠してしまうのはできればやめてくださいね」
「はいはい、善処しますね、お疲れ様です」
”困ったなあ”という顔で苦笑いを浮かべて職員の男性がエレベーターホールに去っていくのを見届けてから、「どうぞ」と招き入れてくれた。
引き戸は取っ手を離すと音もなくゆっくりと閉じていく。
「おれが来るより少し早めに時間指定したのに来てないから、もしかしてあっち行ったかと思った、教務に連絡してよかった」
先生はポケットから紺色の革の名刺入れを出して、一枚取り出して差し出した。
「藤川です、長谷久秀くんようこそ。よろしく」
その時の左手の動作が、少し気になった。
名刺入れを開ける為に押さえに使った指は親指から中指の三指。薬指と小指は伸ばしたままで動かなかった。
「あのさ、こうやって単独で見学に寄越すことってあまり無いんだけど、きみ、もしかしてめちゃくちゃ優秀で期待されてたりするんじゃないの」
こちらからも名刺を差し出すと、右手を出して受け取った。親指から中指の三指を使い、薬指と小指は折り曲げた状態だった。
おそらく、左手の薬指小指が動かせないのは間違いなさそうだ。なかなか不便な状態じゃないだろうか。
「いやぁ、そんなことないですよ。中途の鑑識官の募集かかったのかなり久々らしいんで単に受かったのが自分しかいないのかもですし」
そう答えるとちょっと微笑んで「ま、いいけどね」と呟いてから、先生は壁際のデスクに向かった。
「もう少ししたら助教も来るから校内の案内させるよ、ソファに座って待ってて」
研究室というともっと書籍や書類でもっと雑然としているイメージだったが、この部屋は全体が整然として、家具や調度品もきれいめのお高そうなものばかりだ。
壁の下1/3は淡い緑、上は象牙色に塗られており、その間には焦茶色と白の梯子模様のテープで切り替えられている。モデルルームかと思うくらいに洒落ている。
キョロキョロと見回していると、扉の向こうからか細い声で「おはようございまぁす」と呼びかけるのが聞こえた。センターで分けたおかっぱに丸眼鏡に無精髭、自分と同じくらいの歳と思われる男がノックもせずふらりと入ってくる。
「南、今日から研修の高輪署の長谷くん来たから校内案内してやって。長谷くん、この子うちの助教で小曽川南、33歳」
思ったより年上だ。
「あ、どうも、おそがわです、よろしく〜」
人の良さそうなちょっと間延びした返事をすると、小曽川さんはじっと先生の背中を見て「朝っぱらから引きこもってないで先生が連れてってあげればいいのに」と身も蓋もなく言い放った。
「南のほうが安全でしょ」
振り返りもせず文献を読みながら言う先生を横目に部屋を出た。
「小曽川さん、安全って、何がですか?」
尋ねると腕を組んで暫く立ち止まった。
「うーん…人にもよると思うけど…そのうちわかると思うよ。ひとつ言えることは、勝手に言っちゃうとプライバシーの侵害になるから、どうしても気になるなら本人に訊いたほうがいいかもしれないってことくらいかなあ」
「そうですか…」
飯野さんは変わってると言ってたけど、秘密主義、謎が多い、よくわからないってことや、身体に不自由があるということも含むんだろうか。飯野さんがそういった点をそのように表現するような人ではないと思いたい。
でも実際、今のところ何がどう変わってるのかわからない。少なくとも、おれよりはうんと真っ当そうに見えるし、社会的にも立派な人だろうに。
なんとなくモヤモヤが消えないまま、おれは助教の小曽川さんと隣にある本がびっしりと積まれた先生専用の書庫へ移動した。
話す声と足音が遠ざかるのを確認して、だらしなく机上に開いていた本の間に顔を突っ込んで伏せた。
躰から力が抜け、末端が震える。
苗字が長谷。飯野さんが課長になる前の課長も長谷。
そして下の名前に文字は違えどどちらも「ひで」と付いている。間違いなく【あの時】の警察官の血縁者だろう。
面倒なことにならなければいいけど、こういうときの嫌な勘はだいたい当たる。
目にかかった前髪の中にある縫合痕に触れる。そしてその中の損傷部位を埋めたセメントの歪な硬い感触。
何故。何故【あの時】死んだのがおれじゃないんだ。
結局おれは死ぬまで【あの時】から逃れられない。
もう【あの時】のことなんか何も憶えていないのに。
もう【あの時】より前のことなんか、何も思い出したくないのに。
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