【2020/05 居場所】

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「一応、玲さんがいつ頃戻って来られるかお訊きしたんですが、被害者数が思ったより多いみたいで混雑してるそうでまだ戻れないそうです。あと、作業している現場でトラブルが起きたのでその対応にもあたってるので、まだ先が読めないとのことでした」 「トラブルってどんな?」 「お答えいただけませんでした」 客人はわたしたちの遣り取りを他所に、動じること無く静かに窓の外のベイエリアの景色を眺めながらお茶を嗜んでいる。このひとは玲さんと連絡がつかないことに慣れているんだな、と思った。そして玲さんが連絡とれないことは仕様のようなものなのかなと思った。 「玲さんから、そちらには連絡はないんですか」 「あまりね。特に此処数年は授業とメインの共同研究が忙しかったし、法人の役員は休んでたから。一段落ついて今年度になってやっと落ち着いてこないだ顔合わせられたくらい」 彼女は続けて目をキラキラさせ、初めて手をつないでくれたこと、初めて自分の住む部屋を訪ねてくれたことを語った。そして、玲さんが養子として初めて家に来た頃、怯えて旦那さんの後ろに隠れて泣き出しそうな顔をしていたこと、話しかけても言葉をかわしてくれなかったこと、全く目を合わせてくれなかったことを語った。 覚悟はしていたものの、それはとても傷ついたし、悲しかったし、虚しかったし、憤りを感じないわけでもなかった。無力さを感じ、それまで感じたことがない種類の挫折だったと言う。 しかも玲さんは旦那さんに恋人のように始終くっついている状態で実際に頬に口づけたり指を甘噛みしたり、同衾したがったりした。いくら恋愛感情で結婚したわけではないにせよモヤモヤと嫌な気持ちが湧き上がり、苛立っている自分を悟られぬよう制するためにも「治療者として何をしてあげられるのか」を考えることに注力するよう随分と心を砕いたことを淡々と話した。 だけど、声の抑揚を抑えていても、眼を覆う膜のように涙を湛えているのは見て取れた。 「治療者として何をしてあげられるのか」を考えることに注力した、でも、その結果が「治療者以上になれなかった」であり「わたしたちの家は玲さんの居場所にはなり得なかった」というのは、やはり彼女にとっておそらくとても大きな挫折だったことは間違いない。 わたしは用便に彼女が中座している間に、ゆかに話しかけた。 「玲さんは本当に、ある意味誰とも縁が薄い人なのね」 「だから本気で執着されるのもするのも、自分の心を守るために避けてるんでしょうね。好意を利用して振り回しているというよりも」 ゆかは自分の分のケーキだけ普段遣いの300円ショップで買った青いお皿に取り分けて、普段遣いの300mlはたっぷり入るであろうお皿と揃いの青いマグカップにお湯を注いだ。 「同じティーセット、もう1揃え出したらいいのに」 「いえ、自分の分だと思うと油断して壊しちゃいそうだからいいです、これで」 わたしとゆかもある意味同じような関係性かも知れない。わたしは自分の娘同然に思っているけど、ゆかは一線を引いている。ゆかも、誰とも縁が薄い子だ。自分の家族を失っている。失った家族を弔えずに罪を背負ってしまった子だ。 その当時わたしも、どうしようもない無力さを感じた。もっと早く、強引にでも、この子を高齢の保護者とともに東京に呼び寄せて、表舞台に上げてやっていたらよかった。 収入や貯金が尽きるのが怖くてどうにもできず、ゴミ屋敷になった家の中に遺体を隠したまま事務所との連絡を絶って引きこもって、その末に捕まって。 本当ならそんな思いさせなくて済んだはずだった。その経験はわたしにとってそれまで感じたことがない種類の挫折だった。
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