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《第5週 火曜日 午後》
「長谷、なんか今日楽しそうだな」
微物を顕微鏡観察している背後から係長から声をかけられる。係長はおれと同い年で、キャリアの人だ。でも変に偉ぶったところもなく、穏やかで教え方も丁寧ですごくいい人だ。配属先の直上司が怖い人だったらやだなと思ってたけど杞憂だった。
「あ、うちに先生が戻ってきたんです」
「先生?」
ああ、そうだ、なんて説明したらいいんだろうな。いつも交際関係とか家族関係を訊かれるとなんと答えたらいいのか窮してしまう。
「はい、端的に言うと恩師なんですけど、おれに住みたかったら置いてくれるって誘ってくれて、こないだからお世話になってるんです。でもご本人はその少し前から仕事で遠方に行ってて、やっと戻ってきたんですよ」
「人に部屋預けてどっか行っちゃってたの?面白いねその人。いくつくらいの人?」
そう。そう言っちゃ申し訳ないけど、面白いと思う。色んな意味で。
「おれの15上ですね、今年の秋で43の筈なんで」
「その人、どこで何の先生やってるの?」
法医心理学?だったっけ、逆だったっけ、どうしよう頭に入ってない。
「普段はJ医大と付属の看護学校で教えてて、法医学と心理学くっつけたような名前のナントカ学が本業だって聞いてます。今回は西日本に災害支援で行ってて…てか、飯野さんの紹介だったんで笹谷さんも知ってるとは思うんですけど、その人のこと」
「え?」
態々言わなくてもいい気もする。でも此処まで言っちゃったら話さないのは不自然だ。
「藤川玲先生です、監察医務院の非常勤もしてる」
「ああ、…へえ…」
係長はそう言ってから一旦、やや暫く間を空けて問いかけなおしてきた。
「あの人って、所謂ゲイじゃなかったっけ?」
「はい、そうですね」
更にやや暫く間を空けて問いかけなおす。
「え、長谷、ソッチの人なの?」
「だとしたら、何か?」
戸惑っている、そして何か言おうとしているのが伺い知れた。その内容は多分今までと同じ。どこに所属してても寮でも、ずっと散々言われたことだ。
「それ、あんま言わないほうがいいよ。ほら、只でさえ男ばっかの世界だしさ。何ていうか、おれはいいんだけどさ、他の耳に入って色々言われて居心地悪い思いするの気の毒だし」
そうそう。これ。そして、そう云う人ほど持ってる偏見が大きいから厄介なんだ。
言い返したいこともあるけど、基本悪い人ではないし、今後も数年は少なくともお世話になる人だしうまくやりたいんだけどなあ。
「お気遣いありがとうございます。これまでの配属先とか寮では肩身の狭い思いしたことも勿論ありますけど、でも、そのことを知っている人はこの署に長い人だと既に居ますし、飯野さんも父の知人でそのこと知ってますから。そもそも、そのことで業務に何か支障ありますか?」
ああ、ダメだ。抑えてるつもりでも全然抑えられていない。棘のある言い方をしてしまった。もしこれで嫌われてイビられてもしょうがない、それはそれで諦めよう。まあ、基本そんなことをする人だとは思えないけど。
「まあ、それもそうだよな。済まない。余計なこと言った。楽しそうにしてたところに申し訳ない。ところで…地域課から要請があったからちょっと行ってきてもらっていいか」
「いえ、あんま気にしないでください。取り急ぎ行ってきます」
簡単に地域課から申し送りされていた内容を確認し、最低限の現場検証に必要なものとインナーの替えと防護服を持って、近くなので地域課の自転車を借りて向かう。
気温が高く、湿度ももうそこそこ高く、動くとインナー全体がしっとりしてくる。ただでさえ大小あれど都心は何気に坂が多い。浪速は八百八橋、江戸は八百八坂というだけのことはあるなあ。
そう思いながら、昭和中期から平成に建てられたマンションが犇めく住宅地へ急ぐ。
そう、そこは、こないだ連続四肢切断事件の舞台の一つになっていた地域だ。まさかとは思うけど、もしかして、もしかするかもしれない。
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