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西新橋に到着すると、通常の病院の救急用の入口ではなくそのまま大学病院の通用口から入った。
ご遺体は安置所の奥の先生の親御さんの寄付で作られた剖検用の小部屋に一旦運び、そこで一旦納体袋からプローブを敷いた作業台に出し、薄い半透明のビニールシートとプローブを敷いたストレッチャーに載せ直してから同じビニールシートに覆って、中が見えないよう毛布を被せた。
おれたちがその作業をしている間に先生は造影系の各検査室に連絡を取り「あ~、ですよね。すみません」と何度か言っては切って、多摩キャンパスの緒方先生に連絡をとり状況を説明した上で仰いでいた。
「空きが出たところから順番に検査室から呼び出し来る、それまでは待機だな」
そう言って先生が部屋の冷房の電源を入れると、通常感じることのない音を立てて防護服がはためく程の風が吹き出す。コントローラーの表示を見ると16℃で、風力はMAXだ。同時に起動した大型の換気扇も音を立てて回り出した。
小曽川さんがバイオハザードマークのついた蓋付きのゴミ箱を持ってきてくれていたので、先生とおれはようやく防護服を脱いだ。
「わ、防護服がない状態だと寒い」
汗をかいていたので、吸湿速乾素材のインナーに吸収されていた汗が一気に気化して体が冷える。
「あ~、此処出る前にも冷房かけておいてたんですよぉ念の為。すぐには呼ばないと思うし、なんなら呼ばれてもおれが行くんで先生と長谷さんはシャワー浴びとくなり、研究室で休んでるなりしてていいですよぉ」
手際よく先生が持ち出していた道具などを片付けながら小曽川さんが言うと、先生はおれに尋ねる。
「だってさ~、どうする?」
「あ、おれは先生に合わせます」
「じゃあ、一旦部屋戻るか。南、病理に回すものメモしてあるから頼む。おれチェコの準備の続きしてるから」
小曽川さんの返事を確認すると、先生は部屋をあとにした。おれもその後を追って荷物を持って部屋を出る。
先生と構内を歩いていると、やはりついこないだのことなのに見学に来ていたときのことを懐かしく感じる。目まぐるしくて濃密すぎたせいで、ひどく前のことに感じてしまう。
それだけじゃない。先生の首筋に残る赤紫色の痕跡見つけたときの胸のざわめきとか、初めて頭を撫で回されたときの感触とか、そういうものまで蘇ってくる。
「先生、なんか懐かしくなりませんか」
「そうかもな、おれも来るの久しぶりだし」
「いや、そうかもしれないですけど、そういうんじゃなくて、なんかもうちょっとこう…」
おれがそう言うと、先生は振り返ってニヤリと笑った。
「そうじゃなくて、何」
おれが答えられずにいると、近づいてきて下から覗き込むようにおれの顔を見て先生が言った。
「長谷、今えっちなこと思い出してたでしょ」
図星を突かれて、首から上が一気に熱くなるのを感じる。
「大丈夫?真っ赤だよ?」
「わかってます…」
再び歩き始めた先生の後ろを、火照った顔を押さえながらついていく。
「部屋着いたらアイスあるから食べな、氷菓ばっかりだけどもしアイスクリーム的なもののほうがいいなら買ってもいいよ。お詫びにおごるし」
時々おれを振り返って話しかけてくれる先生を見ていると、今までこういうありふれた幸せな恋愛とか、そういう光景を、家庭でも学校生活でもおれは味わってこなかったんだということを実感して、幸せだけど胸に何かが刺さるような感じがする。
「大丈夫です…氷菓って何があるんですか?」
「パピコ、アイスボックス、アイスの実、チューペット凍らせたやつ、フルーチェ凍らせたやつ」
「フルーチェ?」
「え?知らない?」
「フルーチェ自体は知ってます、そっか、あれ凍らせてもおいしいんですね」
そんな事を話しながら、研究室のある建物に戻る。
銃弾の撃ち込まれたところはもうきれいに補修されて、すっかりわからなくなっていた。
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