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おれは届いた肉の塊をスポーツ専門チャンネルをBGMに無心に食べ、ソファにひっくり返って一休みしてからシャワーを浴びて歯を磨いて、早々に床についた。眠ったのは、曖昧だけど多分日付が変わる前だったと思う。
疲れていて深く眠れていないのか、おれは夢を見ていた。佐藤さんとの関係がバレて騒ぎになって、親が呼ばれて、寮ではなく横浜の自宅に連れ帰られたあの日のことを。
問い詰める母親の憤りと軽蔑に満ちた目、それとは真逆におれが何も相談しなかったことに対し嘆き悲しむ父親の表情。
そして、おれが父親に他に被害を受けていないか問い質され、初めて母親に連れられて通ってた宗教施設で受けた性被害を語ったとき、父親が母親に対して怒り狂って手を上げて、それを必死に止めたこと。
母親が最低限必要なものだけ旅行鞄に詰めてその日のうちに出ていったこと。それを止めようとしたとき、汚らわしい触るなと言っておれの手を薙ぎ払い、ありとあらゆる言葉を尽くして罵倒したこと。
最初から父親を利用するつもりで結婚したこと、おれを利用して教団での地位を得ようとしていたこと、全部吐き出すだけ吐き出して去っていったあの日。
夏休みの練習も、秋まで残っていた試合も、大学への推薦入学も、代表入りも全部なくなったあの日。
胸の奥が冷たくなる感じがして、力が抜けて、深く息ができない。
苦しくて夢から醒める。目を開けるとリビングから漏れる薄明かりの逆光のなかで、パジャマ姿の先生がベッドの傍らに膝をついておれの顔を覗き込んでいた。
自分の顔が涙で濡れていることに気づいて、上体を起こして手の甲や指の腹で拭いながら「すみません」と呟くと、先生は頬杖をついておれの顔を見上げ「何を謝ってんの」と言った。
「いえ、なんとなく…」
言われてみればそうだ。
「ちょっと、顔洗ってきていいですか」
「うん、行っといで」
洗面所に向かい、鏡が苦手だという先生の要望で水栓とシンク部分しか無い洗面台で顔についた涙を洗い流す。ペーパータオルを数枚取って水分を拭き上げ、鼻の中がぐずついていたので洟をかんだ。
リビングに通りかかると、先生はゲームをしていたらしくテレビ台の前が散らかっていて、テーブルにはプロテインを飲むときに使うようなシェーカーが置いてあった。中の液体は色から見てミルクティかココアの味っぽい。
寝室に戻ると先生はおれが寝ていた側のベッドでゴロゴロしていた。
「長谷さ、やっぱり、昼間言われたこと悔しかったんじゃないの」
「かもしれませんね。嫌な夢見ました、高校謹慎になったときの」
おれが腰を下ろすと、先生はコロコロ転がってもう1つのベッドまで移動した。互いに横臥した状態で向かい合わせになった。
「先生が寝てたとこ、なんかいいにおいする」
「入浴剤マシマシで風呂入ったからな」
先生はおれの方に左の手を差し出す。
殺されそうになったとき左の腕で抵抗して刺されて、尺骨神経障害が残った手。小指・環指(薬指)が丸まって鉤爪状に変形し、小指側の手の側面の筋肉が萎えている。丸まった薬指に引っ張られて中指もやや前に倒れている。
その手をとって匂いを嗅ぐ。
「何の匂いだと思う?」
「ラベンダーはなんとなくわかります、でもなんか他の匂いも入ってますよね」
先生は手をおれの側頭部に置いて「おお、賢い賢い」と撫でる。その手が徐々に、指の先でくすぐるような動きに変わる。ザワザワとした感覚が背中を伝って下半身まで降りてくる。
「…先生、先生が嫌じゃなかったらなんですけど」
「ん?何?」
先生が帰ってきてからまだハグしてもらってないなと思って、何気なく言った。
「慰めて、ほしいです」
それまでリラックスしている様子だった先生の目に妖しい色が混じる。
「それは、どんなふうに?」
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