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《第2週 月曜日 日没》
「今日はもういいよ、研修中は9時5時でいいって聞いてるでしょ」
演習の授業が終わって研究室に戻り、直接質疑や相談に来る学生の姿もなくなったところで、小曽川さんのところに置いてきた私物を纏めて帰るよう促された。ついでに小曽川さんまで帰るよう促されて、一緒に帰ることになった。
「え〜?いーんですかぁ、おれまで帰って。まだこのあとどうせ剖検あるじゃないですか、作成する書類もめっちゃあんのに」
「だから、今日は、だよ」
本来はまだまだやることがあり、普段は小曽川さんも一緒に残っている時間なのか。
「今日は、ねぇ」
からかうように小曽川さんは笑う。
「まあ、先生がそう仰るのであれば帰りますね〜」
出て行く小曽川さんに返事をしない藤川先生に「お先に失礼します」と頭を下げる。
怒ってるのかと思いつつ顔を上げると、艶かしい暗い光を帯びた瞳に薄く笑みを浮かべて、右手の薬指でセーターの右の襟を引いてこちらを見ていた。
赤紫色の痕を人差し指で指して「見た?」というジェスチャー。
頷くとその人差し指を唇の前で縦にして緘口を要求した。
そのときの仕草や表情が、自分の中に抑え付けている欲をひどく刺激した。
あの、昼休みの、小一時間程度の時間に、施錠して、遮音カーテンを閉じた暗い個室で、痕を残すくらい激しい行為を?
そして、そんなことした後で、何食わぬ顔で2枠も講義を熟していたとか、学生ならともかく先生が?
甘い毒に中てられて、下腹部の奥で悪い虫たちが騒ぐ。
足早に小曽川さんを追うが、脚の間で息づいたものが、憑き物のように首を擡げ、うまく歩けない。
降りる途中の階でバリアフリートイレがあったので、フロアに人の気配がないことを確認して入って鍵をかけた。
簡易ベッドを引き出し、仰向けに倒れる。
飯野さんが言ってたのはそういうことか。
先生が小曽川さんに「南のほうが安全」と言ってたのはそういうことなのか。
頭の中でグルグルと考えが巡って止まらない。回し車に載せられた鼠みたいに、回る思考に振り回されている。
そのおかげで身体の反応は治まったが、良くない兆候だということに変わりはない。
トイレを出て、エントランスまで出てようやく追いつくと、小曽川さんは別人になっていた。
無精髭はなくなり、眼鏡もなくなり、赤紫と黒を基調とした化粧をしていた。服も朝着ていたシンプルな装いとは打って変わって黒いズルズルした恰好。薄い生地のロングカーディガンにスカートにサンダル。やけに重そうなアクセサリーをガチャガチャつけていた。
「あ~やっと来た〜、大丈夫です?変なことされませんでした?」
喋るのを聞いたらやはり小曽川さんは小曽川さんだった。正直ちょっと安心した。
「変なことはされてないですよ」
直接何かされたかといえばされてない、が、されたのだけども。
「長谷さん、おうちってどこら辺ですかぁ?」
「京急沿線、品川駅とか署からなら歩いて帰れるとこです」
「じゃあ逆方向ですねえ、おれ実家住みで千葉なんでこちらで失礼しますね」
よかった、このまま一緒に帰るとかして半端に仲良くなってプライベート知られて面倒なことになるのも怖い。
「小曽川さん、お疲れ様でした」
手をヒラヒラ振って駅に向かうのを見送ってから、スマートフォンのロックを解除した。
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