【2020/5 苦界】

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《第二週 金曜日 業後》 長谷が帰るのを「じゃあ、また週明けに」と見送って、頼まれていた書き物の締切が迫っているので、此処暫くプールしていた参考文献を見ながら執筆に戻る。 締切まではまだ時間はあるが、緊急の仕事が来ることも多い立場だからやっておくに越したことはない。先行させておかないと泣きを見るのは自分だ。 今週はあっちに呼ばれたのも一件だけで済んだし、授業の前後や会議のあるときに剖検ぶっこまれなくて本当に助かった。 多摩にいるときは教えるのも捌くのも小間使いも容赦なく振られてめちゃくちゃに忙しかった。研究すること自体は認めてもらってたものの正直「研究も糞もあるかよ」という状態だった。 監察医務院の誘いと役員の仕事を盾にこっちに拠点を移させてもらえてよかった。 今日は午後からもう一件、交通事故に因る死傷で回ってきたのでもう一度長谷を連れて行ってやった。 午前のは不慮の事故ではあるが背景がヤバそうな事件性のあるものだったので、教えたときの書き込みだらけのプリントを見たり、資料を見たり、署に連絡をとったり、データを何度も確認しながらやっていたが、午後やったときは要領を得たのかこちらの言う内容を的確に拾って着々と進めていた。 状態がかなり悪いにも拘らず、怯まず「この部分見たのは何故ですか、何を判断してますか」と割と普通に覗き込んでくるので、外表と内部の損傷、交通事故での特徴的な損傷の起こり方も説明した。この辺りは実際に診ているハルくんが詳しいし(この件もハルくんがERで処置を進めていたので)、現場で使うハンドブックの監修もしているのでので後日訊きに行くといいと伝えた。 最初、年度末に連絡が来て打診されたときは、あのときの警察官の血縁者じゃないかと、事件のこと知ってるんじゃないかって怖くて、わざわざ頼んできた飯野さんに苛ついてて、しかも元アスリートなんて周りに居なかったタイプだし体育会系の悪ノリが残ってるようなやつだったらやだなと思ってた。 実際に初めて長谷が来た日も、あの真っ直ぐな感じに当てられて勝手にイライラしてた。でも、悪ノリが好きなタイプでもなく、目敏くて飲み込みも早くて賢くて、真面目だけど棘がなくて人が好くて、欲望に忠実で本能に訴えかけられると弱くて、でかいのに威圧感がなくて子犬みたいで可愛かった。 あんなやらかししてただけあって、おれのことあからさまにいやらしい目で見てくるし、でも、おれのやること何でも受け容れてくれるようなタイプでもなくて、敏感なのに必死に耐えて。かと言って、絶対におれには本気にならないって頑張るタイプでもない。落とそうと思えば落とせる気がする。 事件のことは何も知らないみたいだし、そしたらもう関係ないなって思って、どうにかしてやりたくなった。おれのことほしいって言わせたい。振り向かせて、もっと可愛がりたいし、甘えて困らせたい。 原稿を書くためにメモしていた内容をコピーして、順序を整理して組み立てながらそんな良からぬ事を考えていたら、隣から書庫を施錠する音がして、やや少ししてからこちらの部屋のドアを2回ノックするのが聞こえた。 「先生、帰る前に少しよろしいですかね」 少しだけ引き戸を開け顔を出して南が言う。あ、怒ってるときの顔してる、説教かなあ。やっぱりあの長谷くんとの遣り取り筒抜けだったか。もともと1つの部屋だったとこだし、簡易なパーテーションみたいな壁だもんな。 「いいよ、入って」 ソファに上着と鞄を置いて、腰掛けて飲みかけのエナジードリンクの缶をテーブルに置いて、机に向かっているおれの背後から南が話しかけてくる。 まずは予想通り、昼の長谷との遣り取りが割と聞こえていて気まずくて結局昼飯を外で食った、いい加減にしないと長谷くんの上司さんに話が行って、それがうちの上に来たら本当に先生クビ飛びますよ?先生がクビになったらおれも所属なくなって路頭に迷うんですよ?勘弁してくださいという内容のお説教。 大丈夫だよ、飯野さん、長谷のやらかしもおれの素行もわかっててその上で依頼してきてるんだもの、この見学はおそらく長谷の試金石的なものでもあるんじゃないかなあ。 あと、多分だけど、お前がうちの親や親父さんに頼まれたのと一緒で、飯野さんは長谷をおれにマークさせたいんだと思う。あそこそういう部署だもん。 いろいろ言ってしまいたいけど、適当に反省しているテイで会話に合わせて返事を返す。 「それより、今日はちょっと先生に相談があるんです、ちょっと長谷くんの前じゃアレな」 おや、なんだろう。もしかしてとうとう我慢の限界でやめると言い出すのかな、うちみたいなのんびりしたとこで安定して働けるの本業あるからおいしいだろうけど、正直おれみたいなやつの補助なんて実務より心労が多くてやってらんないよなあ。 「今度、うちの妹結婚するんです。週末それで、お相手の子がうちに来るんですよ」 「へえ、そりゃめでたいね」 今時期ってことは、このあと結納して、半年くらいで挙式かな?秋かな。お祝いを用意しておかないとな。 そっか、もうそんなになったか。そりゃもう南が33にもなってるんだから当たり前か。今年でいくつなるんだっけ?おれが今年44で12の…32か。南とは学年一個違い、ほぼ年子みたいなもんだったもんな。 「めでたいね、じゃないでしょう」 「他に何があるの」 会話が途切れて部屋が静まり、おれがキーボードを打つ音だけが響いている。 「あのね、先生、自分の娘のことでしょ、なんなんですその態度」 手を止めて溜息をついた。 「そうだね、でも、今はあくまでもお前んちの子だよ」 南も溜息をつく。憤りが込もった溜息。 「先生、おれ、結婚資金として先生がずっと優明に仕送りってたカネ使うにあたって、明日相手の子にも先生のこと話すつもりです」 「いいよ。適当に言っときな、おれのことはカネだけ出して放り出して丸投げにした悪者にしておいたほうがいい」 会話が再び途切れて、キーボードに手をかけたとき、消え入りそうな小さい声で南が言った。 「それじゃダメなんですよ」 椅子の座面を回転させて振り返って、南の表情を見た。 「何がダメなんだよ、嘘は言ってないだろ?実際そうなんだからそう言いなよ」 南、なにげに柔和な口調やのんびりした雰囲気とは裏腹に、顔が怖い。顔立ちは派手で目付きが鋭いし、ほぼ眉毛ないし。てか、仕事終わった後の南、見た目違いすぎだし。 「優明には、こないだ優明が先方に挨拶に行ったあと、特別養子縁組のこと話しました、戸籍謄本見ることになるから、もう隠し続けるわけにいかないんで」 「ああ、そうだね、そりゃそうだ」 「優明、そしたら本当のお父さんに会いたい、お父さんに結婚式に来てほしいって言い出してきかないんですよ」 思わず肘を折って組んだ左の手の甲の上に、右の肘を乗せて手で髪の毛をグシャグシャと掻き乱した。 脱力して手を下ろして投げやりに腿の上に置く。前を向く気力がない。 「ダメに決まってんじゃん、おれは行かないよ。生まれた経緯とか事件のことも言ったのか?」 「言えるわけ無いでしょ、お母さんは自死してしまったけどお父さんは生きてるって話だけですよ」 目線だけ上に、南の口元が見える程度に上げる。 「あの子に父親がどんな人間かは教えたの」 「おれの上司だって明日言うつもりだよ」 「やめときなよ」 南のやや厚みのある艶のある唇を尖らせる。 「なんでです?」 「会いに来ようと思えば来れてしまうじゃないか、東京駅近辺に勤めてるんだろ?」 「そうですね」 結局、話すしか無いのか。 「なあ、そもそも南も事件のことは知らないだろ。おれが何のために…なんで顔を変えてきたと思う?」 「詳しくは知らないですよ、整形は、治療に必要だったからとは仰ってましたよね」 目線を更に上げて、南と目線を合わせる。 「おれは元の顔は殺された母親に似ている、母親はあの女と双子の姉妹で当然顔が似ていた、…優明の顔は整形する前のおれの顔に似ている。会ったら何が起きるかわからないか」
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