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哲平は立ち上がった。釣られるように彦介も立つ。
「俺、改札を出る」
まるでロボットが挨拶しているかのような哲平の言葉を父は笑わなかった。後ろをついて行く。いつ倒れても掴むつもりで。
ファーストフードを過ぎる時、哲平は振り返った。
「父ちゃん」
「どうした」
「ここで……待っててくんないか」
「一緒に行かんでいいのか?」
「一人で行ってくる。千枝が……待ってるから」
「そうか。いつでも呼んでいいんだからな」
彦介は哲平に携帯を見せた。それに頷いて、哲平は我が家に向かった。
たっぷり2分は眺めただろうか…… マンションの外観だけで震えが来そうだ。
(千枝……今から行くぞ)
意を決してエレベーターに乗ろうとした。
『点検中』
(なんだよ、それ!)
決した『意』が逃げて行きそうになる。
(待て待て、ちょっと待て、これじゃ何のために来たか分からん)
もう一度、意を決し直して階段を上がった。5階が近づいてきて足が重くなってくる。
(あと二段だって!)
足を叩いて、上り切った。ここで帰ってもいいんじゃないか? と悪魔の囁きが聞こえてくる。
(頑張ったよな……頑張ったか? 今度いつ頑張るんだ?)
自問自答が続く。ゆっくりだがいくつかの玄関を通り過ぎた。だが後一軒が越せない。
どうするか決めかねている時にその家の玄関が勢いよく開いた。
(うわぁぁぁあ!)
声に出なかったのは、腰が抜けそうなほどに驚いたからだ。出てきたのは園部さんという奥さん。
(えらいことになった!)
この園部さんは、とにかくお喋りだ。どこか壊れてるんじゃないかと思うほどに喋る。哲平でも相手をするのに気合いがいる人だ。だが今の哲平には気合いなど無い。あっという間に渦に巻き込まれた。
「まああああ、宇野さん、お久しぶりですねぇ、どうしてらしたんですか? 奥さんがあんなことになってパタッと音が聞こえなくなったでしょう? そりゃもう近所の皆さんもひどく心配して! 何度かお母さんやお姉さんが掃除にいらしてましたね、あまりお話も伺えなくて残念でしたけどそうですか、お帰りですか! それとももうずっといらしたのかしら? 水臭いわ、言ってくださいな、なんでもお手伝いしますから。今買い物に行くところなんですけどお掃除でもして差し上げましょうか? 今夜は煮魚にするんですよ。後でお持ちしますから。まあまあ、本当にお元気そうでなによりで」
そこで明らかに息を継いだから、それっ! と割り込んだ。
「園部さん、今日は荷物を取りに来ただけなのですぐまた出ます。いろいろご心配ありがとうございます。またいずれ改めて」
それだけ言って、急いで鍵を開けて滑り込んだ。もう汗びっしょりだ。
中に入って顔を洗い、タオルで拭いて水を一杯飲んだ。やっと落ち着いて椅子に座る。
徐々に笑いがこみ上げてきた。しまいには大笑いだ。
「千枝、ごめん! 園部さんに負けた!」
こんなつもりじゃなかった。歯を食いしばり、涙を抑えて、『千枝』と心で語りかけて入るはずだった。だが園部さんの剣幕に気圧されてあれだけ躊躇した家に逃げ込んだのだ。これを笑わずにいられようか。
一人家の中で笑い声をあげる。
「はっはっはっは……」
立ち上がって箪笥の上の家族写真を手に取った。涙は落ちなかった。
(千枝、ただいま。ごめんな、遅くなった)
何一つ変わっていない。きっと母ちゃんも姉ちゃんたちも、物を動かさないでくれたのだ。
(そうだ、先に靴)
靴を出しながらちょうど今着れそうなものを出す。部長からのもらい物が多い。
(この積み木、面白そうだ。あ、この本もういいんじゃないか?)
そんなものを引っ張り出す。
次々と引っ張り出したものを腕組みをして眺めた。
(これ、持ってくより……)
哲平は靴だけを持って外に出た。
「心配したぞ、大丈夫か?」
「参ったよ、喋り殺されるとこだった」
父に事の顛末を話して聞かせる。屈託のない顔……
(園部さん。喋り倒してくださってありがとうございます!)
どんなものにも使い道がある、というものだ。
「それでね、今の和愛にちょうどいいものがいっぱいあったんだよ」
彦介はふむふむと頷いた。
「だから今夜和愛を連れて帰って来ようと思う。本とか積み木とかさ、部長にもらったもんがずいぶんあるんだ。持ってくより和愛を連れてきた方が早そうだから」
彦介は目を見開いた。
「ここに戻るのか?」
「うん。俺の拠点だからね。また泊まりに行っていいでしょ?」
「もちろんだとも! そうか、戻るか」
「千枝を……一人ぼっちにしてなにやってたんだろうな。まだ『大丈夫』って言いきれないけど。俺、一人じゃないから。和愛がいるから」
大きな一歩を踏み出した哲平を、愛しく思う父だった。
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