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靴が……
ささいなことだった、きっかけになったのは。
「足、いたい」
和愛が小さな声で哲平に抱きついた。
「足? 転んだか?」
見てみるがどこがケガしているわけでもない。その時に泊まっていたのはありさのところだった。男の子と走り回ればいつもより疲れる。その疲れかとも思った。
「どれ、見せてごらん?」
ありさが和愛の体を抱きとった。
「ああ、これは」
「なに? 三途さん!」
「靴が合ってないのよ」
「靴?」
「ほら、踝と指先が真っ赤でしょ? 靴がもう小さいんだわ」
「明日にでも買いに行ったらどうだ?」
池沢に言われて、(そうだな)と思ったがその時に思い出した。出産祝いで割と大きな靴をもらっていた。先々に使えるように、と。
「靴、あるんだ」
「じゃそれ持ってくればいいじゃない」
「俺の……千枝んとこにあるんだ」
「千枝んとこって……自宅?」
「……うん」
三途に思い切り背中をバン! と叩かれた。
「じゃ、取りに行ってらっしゃい。和愛のためよ。取ってらっしゃい」
ありさも池沢もそれが哲平にどんなに負担なことかをよく知っている。だから、だめで元々、と思っていた。
「考える」
次の日は実家に戻った。あれっきりありさも靴のことは言わなかった。
「どうしたの、暗い顔して」
勝子が心配する。
「なんでもないよ」
勝子は不安になった。また症状が悪化したのだろうか。彦介にそのことを言うと、哲平を散歩に連れ出してくれた。
「どうした? なにかあったか?」
「……」
「言わないと分からないぞ。それとも言えないことか?」
「靴が……家にあるんだ」
「靴?」
「和愛の」
「ウチにもあるだろう」
「もう小さいんだ。足が痛いって言ってる」
「家にあるって、お前のところか?」
「うん」
彦介は肩に手を載せた。
「新しいのを買ってもいいんだぞ」
「そう、なんだけど」
彦介には今、哲平が分岐点にいるのだということが分かった。買いに行こうとしないこと。誰かに取ってきてほしいと言わないこと。これは行くことを躊躇っているからだ。つまり、行きたいのだ。だが行けずにいる……
「どうだ、このまま父ちゃんと取りに行くか」
哲平の足が止まった。
「このまま?」
「ついでだよ、散歩のついで。お前、鍵を持ってるだろう」
肌身離さず哲平が持っていることを父は知っている。
「ちょっと足を伸ばそう。いいじゃないか、天気もいい。ついでだよ、散歩のついで」
『ついで』
(そっか……ついでか)
なんとなく心が軽くなる。一人じゃない、父がいる。
「うん」
電車に乗った。よく聞く駅名を素通りしていく。眩暈が起きそうになる。
「と、ちゃん」
「具合悪いか? ちょっと下りよう」
顔色が変わっていく息子が心配でならない。
「う、ううん、このまま」
目的の駅に着く。やっと下りてベンチに座った。
「頑張ったな! 哲平、今日はここまでにして帰ろう」
それでもいいと彦介は思った。ここまで来ただけでも大きな進歩だ。これ以上はただの負担になるかもしれない。
「もう少し……座っていたい」
「いいとも。お前に任せる。何か飲むか?」
「冷たいお茶」
父に買ってもらった茶を飲む。
哲平には分かっていた。これで帰ればいつ来れるか分からない。不安に、怯えに包まれている自分……
(情けねぇ……)
千枝の声が聞こえたような気がした。
『哲平、待ってるからねぇ!』
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