家族、そして母 ~幼少期、中学校入学から不良への道~

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担任の先生が初めて家に訪問した時。 母は信じられないような顔をして僕を見た。 母の性格上、学校の先生が嘘付いているなんては思わない。 特に、僕の当時の担任は次男の時にも一度担任になっている。 当時の担任は体が大きく不器用で口下手、そして優しく何事にも一生懸命、だが不器用が故に怒る時も不器用だった。 だからこそ、手を挙げることもあったが、それは愛情も交じったもので、憎しみを感じるものではない。 それに、僕たちは手を挙げられても当然のことをしていたから。 これは後日談になるが、どうにかして僕たちと打ち解けようと、先生がソフトボールの練習に顔を出してくれたことがある。 普段学校では言うことを聞かない僕たちであったが、顔を出してくれた時、楽しくて先生と一緒に練習をすることになった。 先生はソフトボールなんてできないのだが、楽しそうにしている僕たちを見て走り回って球拾いをしている。 その時だった。 一生懸命にボールを追いかけていた先生が、周りも見えずに走り回ってくれていたのだろう。 ものすごい勢いで大きな木にぶつかりうずくまった。 僕たちは先生の元に走っていったのだが、先生は耳から血を流し倒れ込んだままだった。 先生はすぐ起き上がり、「大丈夫だから。」と言ってくれている。 だが先生の鼓膜がその時の衝撃で破けていた。 そして次の日、先生は学校を休んだ。 心配になった母は、「先生に謝りに行く」と言って僕を連れて先生の家にお見舞いへと向かうと、先生は笑顔で玄関先に出てきてくれ、僕にこう言った。 「ごめんね心配かけて。敏日旅は上手やなあ、ソフトボール。また一緒にしような。お母さんもわざわざ来てもらってすみません。」 余計な心配は掛けまいと、一生懸命に優しさを振りまいてくれた。 先生はそれから片耳がほとんど聞こえなくなったらしい。 そのくらい一生懸命で優しい先生だった。 そんな先生が急に夜な夜な家まで来たものだから当然母は驚く。 外へ出て約1時間程話すと、母が戻ってくる。 母は血相を変えて僕を怒鳴り散らした。 いくら強がっていると言ってもまだ子供。 大人が怒ればそれが誰であろうと怖い。 だが、最初は怖いからおとなしくしようと思うが、怒られることも慣れてくると恐怖心も薄れ、自然と反発するようになり、最終的には母の言うことも聞かなくなっていく。 それからというもの、週に数回の担任の訪問が続くようになり、いつしかそれが当たり前のようになっていった。 大体先生が来る時間は晩御飯の時間辺り。 食卓を囲んでいる時にチャイムが鳴る。 母はうなだれ玄関へと向かう。 食卓を囲む時には、仕事で帰宅していない父以外の家族で食事をしているため、もちろん祖父母の姿もある。 母方の祖父母はどこにでもいるような爺ちゃん、婆ちゃんでとにかく孫である僕たちに優しかった。 だが、その優しい2人も僕に何と言っていいか分からなかったのだろう。 母が玄関へ向かい、帰ってこないと誰が来たのか察して食卓は無言で包まれていた。 僕は先生が家に来ることでいつも思っていたことがある。 「何で俺だけ?」 実は他の友達の家には先生は来ていないのだという。 やってることはみんなと変わらない。 「俺だけじゃないやん!」 いつも母や先生に言っていた。 実はこのことは、僕が小学校を卒業するまで続いた。 学年が上がり4年生になって担任の先生が変わっても、家への訪問は変わらない。 そして僕だけ。 学校で何かあれば真っ先に疑われる。 授業中に僕の近くで誰か話していればなぜか僕が怒られる。 1度だけだが、僕1人立たされ、僕を題材にして学年集会を開かれたこともあった。 友達で一緒に居ると、子供たちの間では特に僕が中心人物という訳ではない。 だが、大人の目には僕が中心人物に見えたのかもしれない。 小さい頃から変に大人ぶって人を小馬鹿にした態度を取り、大人の言うことを聞かなかった僕。 先生たちからすれば、何かいけ好かない子供であり、影響力が強かったのかもしれない。 そして、この頃から父と母の喧嘩も自然と増えていった。 もちろん原因は僕だ。 僕に怒らない父。 先生に怒られる母。 放任主義とまで言われた父と母は喧嘩が絶えず、そして僕が小学5年生になる頃、父は母方の実家を出て本家である実家で暮らすことになった。 離婚はしていないが形上は別居。 表面上の理由は、父の父、僕にとっての祖父が亡くなったから。 本家にはたくさんの借金があった。 祖父が亡くなったことで父が返済していかなければならない。 公務員で働く一方、借金を返すために本家の稼業である巨峰園も片手間に始め、仕事の前の朝早くから仕事を終えて帰宅した後も巨峰園に出て仕事をしなければならない。 そう息子である僕たち4人には伝えられていた。 そして、それは嘘ではない。 紛れもない事実だ。 現に父は朝から晩まで働き詰めだった。 だが、借金だけが原因ではないこと、原因の中に僕という存在も含まれていること。 これは子供ながらに僕を含めた兄弟4人とも分かっていたことだと思う。 そして、この頃から父と会うこと、話すことも減っていった。 とは言っても、父とはそれ以前から話す機会はほとんど無かった。 寂しいと感じたことはあるか? 答えは「否」だった。 当時の僕にとって、父よりも母の方が強い存在感を放っていたし、そしてそんなことよりもいつも虚勢を張り続け、どうやったらカッコよく強く見られるかを考えていた僕。 どうでもよい訳ではないが、離婚した訳でもないし、たまにではあるが顔を合わせ話すこともある。 今思えば、父は父なりに僕たち息子たちに愛情を注いでくれていたのだと思う。 だが、当時の僕たちはその愛情を感じることはなかった。 父親とはそういう存在なのかもしれない。 見えないところで見えない愛情を注いでくれ、いざという時に力を発揮してくれる頼もしい存在。 どちらにしても、子供だった僕にとってはそんなことは気付くことはできなかっただろう。 そして僕は中学生になり、ますます家庭は崩壊の道へと進んでいった。
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