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黒の研究 六話 餅屋の報告
翌朝、俺は物置にしか見えない部屋で目を覚ました。
昨晩、豪華では無いが、十分な質と量の夕食を食べながら、雇用条件の相談を終え、あてがわれた物置になっているといわれた部屋に足を踏み入れ驚いた。
いや、性格には足を踏み入れられなかった。
客を招き入れる居間があの惨状なのだから、物置となっていると言われた部屋がどんな惨状か覚悟はしていたが、まさか足の踏み場どころか、体を滑り込ませる空間すらないとは思わなかった。
最初他の部屋は無いのかと聞いたのだが、「他の部屋も似たような惨状さ。居間で寝かせるわけにもいかないし……ボクと一緒に寝るかい?」と、上目づかいで綺麗な三白眼の瞳が、からかう様な挑発的な回答をしてきた為、数時間かけ寝るだけの空間を確保しその日は就寝とあいなった。
もちろん一人での就寝だ。
しかし、ゴミの如くうず高く詰まれた本や紙束、衣服によくわからない置物や機械類。
どれもこれもそれなりにしっかりした物や重要そうな物ばかりなので捨てるに捨てられない。
一体どうした物かと伸びをしながら大きく深呼吸をすると、書店や図書館のような墨と紙の匂い、そして誇りが肺を満たし俺は酷く咳き込む破目となった。
着替えを済まし、最初に寺城と出合った部屋、居間の扉を開けるが彼女の姿はなかった。
大きな柱時計を見れば、時は既に七時を回っている。
さて、寺城さんは何処で何をしているのか?
そんな事を考えながら、物と物の間を縫って歩き、ソファーの物の置かれていない所へ腰を降ろし、手近な本の中から読めそうなものを選んで頁を捲った。
人の声を聞いたのはそれから二時間ほど経過した頃だった。
下の階から階段を登る音が聞こえ、次いで部屋の扉が軽く叩かれ、返事を待つ事もなく開かれた。
「おはようございます。寺城さんを起こした後、遅めの朝食としますが、西岩さんもそれでよろしいですか?」
現れた年齢不詳の瀟洒な美女鳩村夫人は、分度器で計ったかのように完璧な角度で頭を下げると、絵画の如き壮麗さすら感じる立ち居振る舞いを魅せた。
「おはようございます。あの店子を起こすのまで大家の仕事なのですか?」
一般家庭の生活はあまり詳しくないので聞いたのだが、それが皮肉になってしまったのか、鳩村夫人はその彫像の如き完璧な表情に僅かな疲れを浮かび上がらせて言った。
「あの人は放っておくといつ起きて着るかわかりませんので、最悪何も食べないまま一日中寝ています。それで体を壊されても困りますので、僭越ながら勝手に起こさせてもらっています」
「それはその、ご苦労様です」
鳩村夫人は氷の彫像の如く完璧な票所で俺を見ると冷たくこう言った。
「これからは西岩さんが起こしてくださると助かるのですが?」
「善処します」
彼女は俺の返答に期待はしていないようで、そのまま寺城さんが寝床にしている部屋へと向かい、軽く扉を叩きとこの部屋に入ってきた時と同じように返事も待たず「失礼します」と中へ入っていってしまった。
流石に就寝中のご婦人の部屋に入る事は憚れるので、またソファーに座り本を読んで待っていると数分後、適度に整えられた寺城を抱えた鳩村婦人が現れ、彼女をソファーに置き「朝食をお持ちします」と部屋を出て行ってしまった。
そして今、目の前に並ぶ馨しい朝食。
「昨晩はよく眠れたかい?」
寺城さんは器用に箸を操り煮付けを口に運びながら言った。
「ええ、何とか押し潰されずに眠る事が出来ましたよ」
理想的な美女が作った純和風の食事。
昨晩のもご馳走になり、その味は折り紙つきである。
しかし、目の前の食事が減る速度は遅い。
「どうしたんだい?箸があまり進んでいないようだけれど」
声の主は、言葉の端ほども気にしたそぶりも見せず、寝起きで育ち盛りの俺よりも早く、その小さな口で瞬く間に目の前の皿を綺麗にしていく。
そんな正確に動く彼女の白い指先が、昨日の死体を舐る動きと重なった。
「いえ、何でもありません」
幼く見えるとは言え、美しい女性のとの食事、本来なら嬉しい出来事であるはずなのだが、一晩眠ってしまった為に頭の中が整理されだしてしまったのか、昨日の事件が頭の中でグルグルと回り、せっかくの美味しいはずの食事を上手く味わう事が出来ないでいた。
俺はあまり愉快とは言えない錯覚を食事と一緒に無理矢理口の中に放り込み、仇のように噛み潰し、味噌汁とともに喉の向こうへと押し流す。
「言い食べっぷりだけね。昨日の残りとはいえ、一工夫加え味を変えてくれているんだ。もう少し味わったらどうだい?」
彼女のいう事はもっともだが、こうでもしなければ俺の体は食事を受け入れてくれようとしないのだ。
「これでもしっかりと味わっていますよ」
そんな素敵な朝食も佳境に差し掛かった頃、タッタカ階段を登る音が聞こえた。
はて、鳩村夫人にしては音が大きく忙しない。
そうなると、恐らくこの足音の主は彼か。
足音が部屋の前で停まると、コンコンと扉が叩かれた。
「入りたまえ」
既にあらかた食べ終わり、最後の甘味を楽しんでいた寺城の声に扉は開いた。
「失礼します。寺城さん報告です!」
足音の主は、俺の予想通り昨日の浮浪児だった。
彼は足元を気にしながら俺達の近くまで来ると、少しだ恨めしそうに朝食に目をやると、思いを断ち切るように口を開いた。
「今朝方特徴どおりの男を発見しました。身長四尺九寸ほど、怪我か障害かは不明ですが僅かに右足を引きずる様な歩き方をした円タクの運転手の男です」
寺城はお茶を啜ると再び匙を持ち聞いた。
「煙草は?」
「若葉を吸っている所を確認しています」
寺城と目があった。
彼女はいつも通りの深く感情のわかりにくい表情をしているが「どうだい?」と問いかけているように感じた。
正直、彼女を疑っていたわけでは無いが、推理と寸分たがわない人物が見つかったとなると、俺には驚くほかがない。
「その男、浮村望(うきむら のぞむ)は、本日は休日のようで朝から食料品を買い込むと、すぐに家に篭り酒を浴びるように飲んでいるようです。今は二人交代で見張りについていますが、何かあればすぐに連絡が来ます。何かご支持はありますか?」
寺城は餡蜜の最後のひとすくいを口に運び、ゆっくり味わい咀嚼しのみこんだ。
既にぬるくなったお茶を慎重に啜る。
小さく息を吐き、桃色の小さな唇をチロリと舌先で舐め、パイプを咥え火をつけるとゆっくりと紫煙を漂わせた。
「買い込んだ食料品に米や味噌はあったかい?」
「はい。確かにありました。それから、日用雑貨品もいくつか購入していました」
寺城はその返答に満足そうに紫煙を吐いた。
「という事は、彼に逃げる気はさらさらなさそうだ。今のところはそのまま監視を続けてくれるだけで結構さ。ただ、何か動きがあったらすぐに知らせてくれ。と、それと――」
寺城は俺に目配せをして、放り出されている財布を取ってこさせると、中から数枚の紙幣を取り出し少年に渡した。
「と、彼の勤めている会社はわかるかい?」
寺城の問いに少年は薄汚れた手帳を取り出し、頁を千切って差し出した。
「よし上出来だ」
そう言うと寺城はパイプを咥えたまま紙を受け取り、かわりにもう一枚紙幣を渡した。
「それでは以上だ。何か質問は」
少年は紙幣を大切そうに仕舞いこむと、気をつけの姿勢をとり敬礼をした。
「いえありません」
「なら結構だ。行きたまえ」
少年は回れ右をして部屋を後にした。
寺城はそれを見送るとゆっくりとソファーに倒れこちらを向いた。
「さてホシのヤサは割れた。後は呼び出した所を逮捕すれば無事事件解決というわけだよ」
「やけに簡単に言いますね。どうやって呼び出すかあてはあるんですか?」
俺の言葉に寺城は、なんという事もないといった風に紫煙を吹いて言った。
「なに簡単さ。ホシの勤めている会社に円タクを一台寄越すよう連絡をするのさ」
「なるほど、その際に『浮村とかいう運転手の評判を聞いた』とでも言って、彼を指名すれば」
俺の反応に寺城はその通りと小さく頷く。
「もちろん円滑に事が進むよう、多少の小細工、警察に人員協力させるのが一番手っ取り早いかな」
彼女はそう言いながら、パイプを机に置きゆっくりと目を閉じた。
「その前に君は目の前の朝食やっつけてしまう事から始めたまえ。鳩村夫人は食事を残すと閻魔様よりも恐ろしいよ」
それは一大事だ。
寝息を立てる寺城を余所に、俺は中断していた朝食へと、再度挑みかかった。
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