The First Night

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The First Night

 残業終わりの新月の夜。くたくたに疲れきった身体で車を運転して、ようやくアパートにたどり着いて、敷地に足を踏み入れたその瞬間。 「うわぁぁぁぁぁぁぁ……っ!?」  あんな風に腹から声を出したのは高校の運動会以来だったかもしれない。――なんて考えられる余裕などそのときはもちろんなく、俺は忍者のようにすばしっこいG(ヤツ)の動きで後退った。  バクバク言っている心臓を押さえながら、もういちど前を見てみる。  いる。いる。やっぱりいる。  暗闇に白く浮かび上がるトレンチコート。胸下まで垂れている髪はしっとりと濡れていて、口元には白いマスク。  幽霊!? それか口裂け女!?  いよいよ腰を抜かしそうになっていると、幽霊 or 口裂け女がごそごそとマスクを外した。ひっ、と俺の喉からは引きつった声が出る。 「おばけじゃないです! 驚かせてごめんなさい!」  マスクの下から現れたのは、少しだけ見覚えのある顔だった。眉毛がなくてほっぺたやくちびるの血色が薄いけど――そうだ、彼女はお隣さんだ。玄関で行き合ったときに何度か会釈を交わしたことがある。ほっとしたついでによく見たら、濡れた髪の毛とトレンチコートのあいだには、肩からかけられたフェイスタオルが挟まっていた。 「実はついさっきドライヤーが壊れちゃって。この長さだから濡れたまま寝るのも嫌だし、今から買いに行くんです」 「ああ……なるほど。よかった……人で」  俺の言葉に、彼女は少し照れたように笑うと、またすぐにマスクを装着した。そうか、風呂上がりのスッピンを見られるのが嫌なのか、と納得する。 「驚かせてしまってすみませんでした! じゃあ、行ってきますね!」  マスクの上から笑みの形の瞳をのぞかせて、彼女はぺこりと会釈をした。その笑顔や仕草が、人懐っこくて親しみやすいものだったからかもしれない。考えるより先に、自転車置き場に向かう彼女の背中を呼び止めていた。 「あの、ドライヤー、よかったら貸しますけど」  お隣さんとは言えほぼ初対面の相手に、普段の自分には似つかわしくないほどのフレンドリーさだ。  うわ、待った、女の子からしたらこれはキモいのでは!?  我に返った俺は、言い訳をするように言葉を重ねる。 「いやその、髪濡れたままで行くのもアレかなって。電気屋ももう開いてないし……」  おそらく24時間営業のバラエティショップに行くつもりなのだろうけど、車でも15分かかる。自転車でなんて、店に着くまでに髪が乾いてしまうかもしれないし、うん。  自分の言葉を必死で弁護しながら、彼女の判決を待つ。  俺を振り返った彼女の、マスクの上の瞳が大きくなる。 「いいんですか!? すごく助かります!」  ――被告人は無罪。俺はほっと息を吐いて、彼女と一緒にアパートの階段を上がった。
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