不器用な母親

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 私は「母親」という存在が嫌いだ。習いたかった水泳も、友達との鬼ごっこなどの運動さえも許可をしてはくれなかったから。  そう、お父さんと私が事故に遭い、お父さんが死んでからだ。母親がおかしくなったのは。私だけ生き残ったから恨んでいるのだろうか、と何度考えただろうか。  そうやって考えているうちに、私は骨髄移植をしなければいけない病気になってしまった。なのに母親は2週間に1度しか見舞いに来てくれなかった。来たとしても終始無言だった。  さらに1ヶ月後には見舞いにすら来てくれなくなった。一週間前、大量に必要な日用品などを持ってきてはくれていたが、何か関係があるのだろうか、と思い、看護師さんやお医者さんに尋ねても言葉を濁して何も話そうとしない。  それから1度も来てくれる事はなく、遂に手術の日がやってきた。私は厳しくても、クリスマスにこっそりプレゼントを置いておいてくれる母親が好きだった。だからこそ嫌いになったのだ。厳しいだけの母親が。あの頃のような人に戻って欲しい、と願いつつ頑張ったが無理だった。だからこの手術が終わったら家を出て行こうと決めた。幸い貯金はいっぱいあるし、アルバイトを掛け持ちすれば大丈夫だ。 「手術室にいきましょう」 と看護師さんに言われたので 「分かりました」 と返事をした。私は重い病気になってしまったがドナーが見つかっただけでも幸せだと思っていた。ドナーがなかなか見つからない人だっている中で私のドナーは早めに見つかったのだ。本当に、不幸中の幸いだった。だから渡してくれるかどうかは別としてだが、無事終わったらその人に手紙を送ろうと決めた。  そして何時間にも及ぶ手術を無事に終えた。手術後すぐはまだ手紙は書けないため、とりあえずお礼の言葉を伝えようと思った。伝えてくれるだろうかと思いつつも担当医のお医者さんに 「ドナーの家族の方にありがとうと言っていました、と伝えてもらってもいいですか?」 とお願いしたら、数秒の沈黙の後、 「君のドナーは君の母親だ」 と言われた。ドナーが誰なのかは個人情報を守るためにあまり言ってはいけないらしいのだが、私の母親から手術が終わったら私がドナーだと伝えて欲しい、と強くお願いされていたそうだ。そして 「今までごめんね」 と伝えて欲しいともお願いされたそうだ。  そして私はやっと気づいた。そして知った。私のために水泳や学校の運動をも禁止にしていたこと。お見舞いに来なくなったのは母親自身も身体が悪くなっていて、このままただ死ぬくらいなら私のドナーになると決めてくれていたこと。そして自分の思っていることを上手に伝えられないちょっと不器用な母親に守られていたことも。  私はあの事故から一度も「お母さん」と呼んだことはなかった。でも今、後悔してももう遅い。自分の母親に謝罪と感謝の気持ちを込めて私は 「お母さん…」 と言いながら泣いた。
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