これは時間稼ぎ

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これは時間稼ぎ

 わたしは、軽く右耳をひっかくようなふりをして、この「耳」が拾う周波数を変更する。  ざりざりっ、とラジオをチューニングするような音のあとに、幾分クリアになった「声」が聞こえる。それはもう、とてもとても聞きなれた、「敵」の声が。 「目」の方の周波数は変えていないから、わたしの目の前では、不機嫌極まりない顔をした理英が、爪の先が白くなるほど力を込めて、エレベーターの昇降ボタンを押しているのがはっきりと見える。  この「肉体」の中に、違う層の情報が同時に入ってくると、ちょっとくらくらする。まだこの感覚に慣れない。慣れることもないのかもしれないけれど、もう少しうまく使いこなせるようになりたいものだ、とわたしは思う。 《ねえ、もういい加減に降りない?》  わたしの耳元で、そうささやく声がする。 《あんたがそうやって頑張るたびに、ああいう事故はどんどん増えるってことなんだよ》 《これ以上、人を傷つけてどうするの?》 《起こるはずじゃなかった事故も事件も、あと何回起こせば気が済むの。もういい加減諦めなさいよ》 〈ーー冗談。わたしの望みは、あの子がちゃんと嫁いで、東理恵さんになることだよ。それで「東さん」と「西さん」で東西コンビって永遠に呼ばれ続けるの〉 《……その目標を聞くたびに、あんたと勝負なんかしなくちゃならない自分の運命を本当に気の毒に思うんだけど》 〈だったら、そっちが降りればいいでしょ〉 《何が悲しくて人間用の箱なんかにこのあたしが乗らなきゃいけないのよ》 〈いや、エレベーターで下に降りるってことじゃなくて、この勝負自体を降りろってことなんだけど〉 《そっちこそ冗談。こんなところで私の連勝記録を止めさせたりしない。しかし、エレベーターの制御システムに介入とか、あたしの苦手ジャンルをえぐるように選ぶよね、あんたも》 〈時間稼ぎの鉄則でしょうが〉  その瞬間。
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