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登拝門(Ⅰ)
風に揺れる樹木の葉が頭上を覆い、虫に食われたように歪な形の木漏れ日が足元に落ちている。
雨宮は苔の生えた石段を一段、また一段と無心で歩を進め、指先が痺れてきたところでようやくそれが途切れた。
泥濘で膝に手をつき、息を切らせながら見上げた先には、【男体山一合目】と書かれた石碑が立っていた。
「たっちゃん! ちょっと、待って……」
「うるせぇ。付いてくんなって言ったろ」
背後に視線を遣ると、登山にはおよそ不向きなヒールの踵を鳴らす日奈子の姿が見えた。階段が途中で折れ曲がり、後方にあった登拝門も今では見えなくなっている。
「下の看板に、山頂まで往復で六時間って……。まさか、登るつもりじゃないよね?」
肩を丸出しにした服装の日奈子は、息を切らしてそう訴えながら、首筋に流れる汗に堪らず長い髪を結い始めた。
「私ら登拝料も払ってないし、勝手にこんなとこ入っちゃいけないんだよ?」
「あとで払えばいい」
前方へ向き直った雨宮は、森林の中に佇むみすぼらしい鳥居を通り抜けた。彼のスニーカーと同様、今にも寿命が尽きそうなそれは、風化により黒く変色していた。
そこから先は螺旋状に縫い合わさった樹木の太い根を踏みつけ、急勾配の坂道を登る。先ほどまでと打って変わり、一歩間違うと地面に足を取られてしまいそうだ。
「もう! 知らないからね」
と叫ぶ声が聞こえつつも、背後では日奈子が不安定な足場に悪戦苦闘しながら後に続く気配が感じられた。
その日、日奈子に連れられて日光二荒山神社中宮祠を訪れた雨宮は、敷地内の右手にある登拝門の奥を覗くと、吸い寄せられるように門をくぐった。
鬱蒼と茂った木々や辺りに立ち込める霧、中央に敷き詰められた神秘的な石畳と、そこから果てしなく伸びる階段に底知れない力を感じ取り、気づけば一歩足を掛けていた。
彼が衝動的に登拝を始めた男体山は奈良時代の僧、勝道上人によって七八二年に開山され、山頂に創建した奥宮まではおよそ六キロにも及ぶ山道が続いている。四月下旬から十一月上旬を登拝期間として設けており、先ほども階段を上っていく登拝者の後ろ姿が見られた。
五月の初めということもあり、頂上を目指す者はやや厚手の上着を羽織り、ごつごつした登山靴を履いて準備万端に階段を登っていった。コンビニへぶらりと立ち寄るような雨宮の服装とは、まるで違っている。
唐突に登り始めたこの男体山は、まさに彼の人生を体現しているようだった。長い階段を一息に上り切ったかと思えば、それは単なる苦難の切れ端に過ぎず、頂上はおよそ架空の存在のように思われた。視界を遮る樹木や、眼前の蛇行した鋭い傾斜を見上げると、彼はまるで地上付近の小道を延々と堂々巡りしているように感じていた。
何を目指して、……俺は進むのか?
そう自問する日々が、近頃は続いている。天涯孤独となった雨宮にもはや家族を養う重責はなく、身も心も軽くなるはずだったが、以前よりも重力に引き寄せられるのはなぜだろうか。途方もない喪失感に打ちひしがれ、どの方角にも身が入らない始末だ。
重力に逆らうべく、俺は上を目指すのか?
それとも、天にたゆたう彼らのもとへ合流したいだけなのだろうか。自然に囲まれた険しい道を必死に進みながら、彼の思考は全く別のルートを辿っている。
「日奈子」
意識を現実に保つべく、彼は背後に声を掛けた。離れたところから「え、なに?」と答える声が返って来た。彼女の気配を感じ取った雨宮は、もはや言うべきことも浮かばず、「足元、気をつけろ」とだけ口にすると、引き続き坂を上り続けた。
道端に咲く花の付近には蜜蜂が舞い、地面には蟻が列をなしている。周囲では名も知らない鳥の鳴き声が木霊し、無数の気配や息遣いが身近に感じられるものの、全体としてはどこか静まり返った印象を受けた。
ここは彼らの住処であり、我々は招かざる訪問者なのだ。
敬意を払い、一歩ずつ気を配りながら進まなければならない。それは相当に神経の擦り減るものだったが、長年続けてきた自動車整備にも似たその没入は、彼にある種の心地良さを与えた。
しかし同時に、拭いきれない鬱屈さがふと顔を覗かせる。もうあの沈み込むような感覚を味わうことも、俺にはないだろう。そう思うと両親に申し訳が立たず、雨宮は胸が締め付けられる思いだった。
けれどそれも、仕方のないことだ。あいつは無事に天へ旅立つことが出来たのだろうかと、そればかりが気がかりで、他に大事なことがあるようには思えなかった。
「三合目……?」
二合目は、いつの間に越えたのだろうか。
急斜面を越えると、突如として景色が一変した。自然界にあるまじき、アスファルト舗装された道路がなだらかなカーブを描き、それが二十分ほど続いた。視界の端には時おり中禅寺湖が映り込み、上空を覆う綿雲が風に流されている。青と白のコントラストが何とも清々しい。
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