登拝門(Ⅰ)

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 今日が晴れていて本当に良かった。  そんな子供じみたことを思いながら、まるで長い通学路のような林道を進んだ先には、よもや懐かしき木製の校舎が姿を見せるはずもないと頭では理解しつつ、次に続く景色に淡い期待を胸に秘めた雨宮だったが、たどり着いたのはまたしても鳥居だった。  今度のものは先ほどよりもひと回り大きく、少しばかりの威厳を感じられたが、四合目を示す小さな石碑の隣にでかでかと【登山道入口】と書かれた立て看板が設置されており、それ単体では神妙に佇んだ鳥居も、まるで商店街の入口に置かれたアーチのように、大衆的と称する域へ落下する速度で足を踏み入れざるをえなかった。  この地点が登山道の入口ならば、今まで登り続けた道は何だったのか。  運動不足を重ね、今年で三十歳を迎える身体にこれまでの道のりは正直言って過酷だった。すでに相当な体力を消耗した雨宮にとって、素人の登山をあざ笑うかのようなこの看板は、絶望を与えるものでしかない。 「日奈子」  背後にむけてぽつりと呟いてみたものの、彼女からの返事がない。  雨宮は後ろを振り返った。そこに彼女の姿は見られない。しばしの間そのままじっと眺めていると、カーブを曲がりながら項垂れたように足を進める日奈子の体躯が、左右にゆらゆらと揺れながら林道の中に姿を現した。  肩で息をした彼女は、重しを乗せたように一歩が遅かった。太腿まで露出した細い足は、ヒールの踵で地面を踏むたび、生まれたての小鹿のようにぶるぶる震えている。  雨宮は鳥居をくぐった先の階段に腰かけ、彼女が追いつくのを待った。  嫌々ながらついて来たであろう日奈子は頭を垂れてすっかり口を噤み、彼の身勝手にどこまでも食らいつこうとしている。そんな彼女を愛おしく感じながら、雨宮は複雑な心境だった。 「たっちゃん、早いよ……」  息を切らせ、汗を垂らしながら目の前にやって来た日奈子は、四合目の石碑を見つめている。続いて立て看板を見た彼女は、雨宮と同じことを思ったのであろう、顔をしかめながら思わず天を仰いだ。 「まだ四合目だって。先は長いね」  そう呟くと、日奈子は眩しそうに目を細めながら笑顔を見せた。 「日奈子。足、見せろ」  ぶっきらぼうに答えた雨宮は階段に彼女を座らせ、ふくらはぎを持ち上げてヒールの靴をむしり取った。「ちょ、やめてよ」と抵抗する彼女に構わず足の状態を見ると、靴擦れを起こした指先や踵の皮膚が無残に擦り剥け、傷口から血が滴っていた。 「新しい靴だから、ちょっと擦り剝いちゃった」  日奈子はまたも笑顔を浮かべようとしたが、今ではそれも痛々しく引き攣って見えた。  雨宮は自身の古びたスニーカーを脱ぐと、それを彼女の足元に放り投げた。「こんなのでも、ないよりましだろ」 「でも、たっちゃんは?」  足元に転がったスニーカーを眺めた後、日奈子は訴えかけるような目つきでそう問いかけた。「たっちゃんは、靴もなしに登山するの? ……そんなの危ないよ」 「…………」  おれは一体、何をしたいのだろうか。  雨宮は自問する。山頂を目指すべき切迫した理由が、俺にあるか? 今からでも日奈子を連れて下山し、一刻も早く傷の消毒をしてやるべきだろう。それが最善だと、頭では分かっている。  それなのに、彼は迷っていた。今でなくてはならないように思えた。逃してはならない勝負どころだと。準備を整え、悠々と到達できる山頂に彼はこれっぽっちも魅力を感じない。あらゆる方角への道を閉ざされた彼が壁を崩壊すべく進む道は、今この時、この先にあるのだと感じていた。  本当は、自らに罰を与えたいだけじゃないのか。  雨宮はまたも自問する。登った先に何があるというのか? 俺は全くもって、進歩のない男だ。ガキの頃は親の言うことも聞かず、随分と身勝手に生きてきたものだが、今も同じように自分の都合を日奈子に押し付けている。あの日も俺が妹を呼びつけさえしなければ、あんなことにはならなかったはずだ。  これは挑戦ではなく、一種の償いなのかもしれない。  眼下に広がる中禅寺湖は、そんな彼を睨む巨大な瞳に思えた。彼の背中を恨めしく見つめる妹の姿が、脳裏に浮かんでくる。  立ち上がった雨宮は、歩き始めた。 「お前は、もう帰れ」  後ろを一切振り向かず、彼は森の中に伸びる階段を進み始めた。後に続く日奈子の呼吸も、足音も聞こえて来ず、湖から送られる視線ばかりが背中に突き刺さるようだった。  俺はどこを進み、何を得るために登るのか。  背後から迫りくる視線に、雨宮は呼吸を荒げた。彼を追い立てる巨大な瞳は太陽光の反射を受け、みるみる熱を帯びていくようだ。  澄んだ青色の湖面はまるで涙をため込んだ涙腺のようで、それがひょんなことから決壊すると氾濫した涙の洪水が勢いよく山を駆け上り、彼を目掛けて一目散に襲い掛かるのではないか。そんなあるはずのない幻想に怯えた雨宮は、前へ前へと俯いたまま急いで足を進めた。  決して後ろを振り返ってはいけない。振り向いた瞬間、悪意に飲み込まれてしまう。  周囲に潜む生き物が、今では彼を警戒している。そのように思えた。交錯する無数の視線に雁字搦めにされた彼は、ひどい息苦しさを覚えた。 「日奈子」  反射的に名前を呼べども、彼女の姿はおろか気配すら感じられない。彼女の存在を背中に感じることで、どれほど心が救われていたことか。雨宮は早くも思い知らされた。  階段を登るとまたも野性的な急勾配の山道が続き、やがて足元に変化が起き始めた。  大小さまざまな石が散乱する、いわゆる”ガレ場”と呼ばれる地帯だったが、登山経験のない雨宮にとって、これほど難儀な道はなかった。  足元をじっと眺め、前傾姿勢を取った彼は、滑り落ちる小石に何度も足を取られた。足裏へ直に感触を受け、先の尖った鋭い石を踏みつけると激痛が走った。その拍子に勢いよくバランスを崩すと、踏ん張った際に姿を隠していた周囲の鳥たちが一斉に木々から飛び立った。  空に散らばる黒々とした点を見上げ、自身の不甲斐なさに憤りを覚えつつも、彼は登ることを諦めたくなかった。  これまでの人生で彼は、何もかもを中途半端に投げ出してきた。くだらない試みだと誰に罵られようと、雨宮は目の前の障壁を乗り越えたかった。  歯を食いしばって体勢を整えると、ジーンズのポケットからお守りが零れ落ちた。中央に大きく”勝守”と書かれた黒地のお守りは、下の神社で日奈子が購入したものだ。彼はそれを拾い上げて握りしめ、ポケットにしまうと前へ向き直った。  六合目を越えた辺りから、ガレ場の石がまさしく岩へと変化し、一メートルにも達しようかというほどに大きくなった。所々に白いペンキで矢印が描かれ、正しい順路を示している。這いつくばるようにそれらをよじ登ると、続いて現れた山頂に伸びる直線の坂道は、恐ろしいほどの急勾配だった。  行けるのか……?  気を引き締めて登り始めようとすると、道を遮るようにロープが引かれている。順路を間違えた? それとも、これ以上は進めないということか? 「――あんた、だいじけ?」
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