勝手にしやがれ

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勝手にしやがれ

「――あっ。ここにも」  すでに三つ目となる乾燥わかめのお徳用パックを床の上に放り投げた萩原(あらた)は、カバのイラストが描かれた段ボール箱を漁っていた。途中から母が荷造りを手伝ったせいか、そこかしこに余計なものが詰め込まれている。  日中に引越し業者を見送った彼は、部屋の隅に積まれた全ての段ボール箱をひとまず開封したのち、気の向くままに中身を広げていた。 「お、これは」と興味を示したアラビアータのパスタソースを裏返すと、賞味期限が切れている。「あらら」  そこへちょうど、気怠そうな猫を思わせる間の抜けた呼び鈴が鳴り、立ち上がった新はのそのそと廊下を通り抜けた。  玄関の扉を開くと、両手に三段重ねのタッパーを抱えた宮沢(さき)の姿があった。 「はい、これ」  手早く彼女が押し付けたタッパーの底は、まだほんのりと温かい。新がおもむろに一番上の蓋を開くと、途端に食欲をそそる甘じょっぱい香りが漂い出し、すっかり失念していた空腹感が気まぐれに顔を覗かせた。 「レンジでチンするか、お鍋で温めて。レンジはあるの?」 「うん。ありがとな、咲」 「……別に。作ったのお母さんだし」  居心地悪そうに目線を逸らす幼馴染の身体を、新はしげしげと眺めた。年に一度は地元で顔を合わせていたが、ここ数年で彼女は随分と変わったように思えた。  中学の頃は黒かった髪は明るい茶色に染まり、耳たぶには丸いピアスがぶら下がっている。胸元の膨らみにはさほど変化が見られないものの、ショートパンツから覗く太腿を見遣ると、いつの間にこれほど肉付きのいい身体になったのかと感心してしまう。 「荷物は、もう片付いたの?」  惚けた表情を浮かべる新に向け、咲は目を逸らしたままそう問いかけた。「段ボールは紐で縛って資源ゴミの日に出すんだよ。あそこのおばさんがすっごい細かいんだから」  そう言って彼女が指差したのは、通りを挟んだ向かいの瀟洒(しょうしゃ)な邸宅で、庭先には目つきの悪い番犬が徘徊していた。 「…………」 「ねぇ、聞いてるの?」 「咲さ、少し太った?」 「は?」  彼の視線を目で追った咲は、途端に頬を赤らめ、「あ、あんたには関係ないでしょ!」と怒鳴った。「…ったく。いつまで経っても餓鬼なんだから」 「咲は子供好きでしょ」 「餓鬼と子供は違うし」と怒りを顕にしながら再び顔を背けると、咲は階段に向かって歩きだした。 「ねぇ、これ一緒に食べる?」と新はタッパーの蓋を顎で突いたが、彼女は無言で歩みを進めていく。しばらくして振り返ると、「タッパーは今度取りに来るから、食べ終わったらちゃんと洗っとくこと。分かった?」と人差し指を立てた。 「はーい。あ、ペットボトルの蓋って、何ゴミに分別すれば――」 「あんた、髪型変えた方が良いよ。あと眼鏡も。それ田舎っぽいし」と遮るように答えた彼女は、派手に足音を鳴らしながら老朽化したスチールの階段を降りていった。 「……そんなに変かな」  もっさりとした自身の重たい髪に触れながら、新は彼女の後ろ姿を見送った。  部屋に戻って冷蔵庫にタッパーをしまうと、新は長距離移動で強張った身体を伸ばしつつ、ベランダに出て景色を眺めた。数メートル先には昔馴染みの宮沢家が一家揃って三年前に移り住んだ二階建ての一戸建てがあり、正面に見える部屋は桃色のカーテンが視界を遮っているが、薄らと明かりが漏れ出ている。 「うわ、明るい…」  都会の夜空は日が沈んでもなおネオンサインによって白みを帯び、見えるのはせいぜい二等級程度が関の山だ。 「アルクトゥールス、スピカ…、あ、デネボラ」  新は瞬く星を眺め、それらを指先で差しながら線で結ぶ。その習慣は高校時代の部活動で身体に馴染んだ柔軟体操と共に、今ではすっかり彼の日課となっていた。 『――星座にはね、上手な見つけ方があるんだよ』 『みつけかたぁ?』  新がまだ幼少の頃、実家の裏手には森の中に佇む古びた二階建ての屋敷があり、そこには歳の離れた彼の友人が暮らしていた。どういう経緯で彼と知り合ったのか、今ではすっかり記憶も朧げだが、大きな天体望遠鏡で星を眺めた光景だけは目に焼き付いている。 『目印となる星があるんだよ』  大柄で白髪混じりの中年の男は満点の星空を指差し、『それを見つければ、今度は次に探すべき星が見えてくる。そうやって漠然と広がるものたちが繋がり、星座を形作るんだ』と言うと、指先で空中に線を描き始めた。 『へぇ。何かパズルみたい』  新がそう呟くのを聞くと、友人は笑みを浮かべ、『そうだよ。友達を作る時も、考え方は同じさ。一つずつ大事に紡ぐんだ』 『じゃあじゃあ、大きな星座には友達がたくさんいるんだね!』 『はっはっは。そうだな』  天体の知識を豊富に持ち合わせていた友人は、星々についての仕組みやそれらにまつわるエピソードを数多く披露してくれた。幼い新にはそのほとんどを理解することが叶わなかったが、友人はとても話し上手で、彼は愉快な話に毎度引き込まれた。  友人があの街を去った夜のことを、新はあまり覚えていない。明日からは別の街へ行くのだと唐突に告げられ、当時の彼はその意味をまるで理解していなかった。 『じいちゃんの新しいおうちはどこらへん? 歩いていける?』 『さすがに歩いては来れないかな』  困ったように苦笑いを浮かべた友人は、その日も慣れた様子で夜空を見上げ、『大体、あの辺りかもね』と冗談めかして言った。  月光を浴びて佇む友人の横顔は妙に寂しげで、それは幼い新にもどこか印象深かった。 『じいちゃんは、お空を飛べるの?』と新が驚いたように尋ねると、友人は『はっはっは』と特徴的な笑い声をあげ、彼の頭を優しく撫でた。『――そうだよ。なんせ僕は、星の博士だからね』 『……そうなんだ』  静かに俯いた新は、ふと気づいたように夜空を見上げ、『でも、目印を見つければどこかで繋がってるよね』と友人に笑顔を見せた。『だって、ぼくらはもう友達だから』 『……新』  子供ながらに学習し、自力で導き出した新の理論に友人はふと顔を綻ばせた。ゆったりとした動作で机の引き出しを開いた彼は、そこから取り出した黄金色の小箱を祈るように両手で包み込むと、やがて花弁の開花を思わせる滑らかな手つきでそれを開いた。『――君に、これを』 『うわぁ、きれい!』  目の前に差し出された小箱を受け取った新は、手のひらに置いたそれを一心に見入った。大小に美しい菱形の装飾が施されたその箱は、どこか複雑な模様を形作っている。小箱の蓋に彼が手を掛けると、それを見た友人は焦ったように手を振った。 『あぁ、まだ開けちゃいけない。いざって時に開けるんだ。いいね?』 『うん、わかった!』 「……じいちゃん、元気にしてるかな」  冷たい風に乗り、薄らと白い吐息が揺らいでいく。手すりに肘をつきながらしばしの感慨に耽る新だったが、彼はそこで偶然にも夜空を駆ける一筋の光を視界の端に捉えた。  それはまるで流れ星のような余韻を残す軌跡でありながら、おおよその落下点を目で追えるほどの緩やかな速度だった。彼は光の過ぎゆく先を熱心に見つめていたが、突然けたたましく吠え始めた犬の鳴き声にその集中を破られた。  そちらへ視線を遣ると、一人の少女が通りを歩いているのが見えた。
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