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◇降りしきる雨の中
正直、その時の事はぼんやりとしか覚えていない。
降りしきる雨の寒さに凍え、体の芯まで冷え切っていた。動かない足を引き摺るようにしてようやく辿り着いたのがその場所だった。
『ビストロ・ノクターン』
明かり窓から洩れる暖かな光に照らし出されたその看板。覚束ない足取りで近寄ってみると、今日のメニューを書きつけた紙が貼られている。
『今日のおすすめ:ボンゴレビアンコ』
ふと耳を傾けると微かに中での会話が漏れ聞こえる事に気づく。
「店長、今日もお客さん沢山来ましたね」
「ああ。不景気の昨今に本当に有難いことだね」
「今日のボンゴレビアンコ美味しそうだったなぁ。ボクも食べたかった~」
夜も遅い時間だというのに皆とても楽しそうで、疲れの色は微塵も感じられない。
何故だか涙が出そうな程に、それが羨ましいと思った。
誘われるようにドアノブを捻ると、食べ物の香りがふわりと鼻先をくすぐる。
美味しそう――。
思わず一歩、店内へと足を踏み入れる。
全ての感覚が寒さと疲労で鈍感になっていた筈なのにお腹は正直で……溜息を吐き出す動きに合わせてぐうと鳴った。
ドアの動きに合わせてカランと入店を告げるベルが鳴ると、皆が一斉に僕の方を見る。
「申し訳ございません、本日は既に閉店しておりまして……お客様!?」
急に皆が一斉に驚いた。どうしたんだろう、そう思った瞬間僕の視界が急速に狭くなっていき――そしてそのまま真っ暗になった。
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