1909 in London

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 ◆ ◆ ◆ 「何だ、いるじゃないか!」  どうにかこうにか迂遠なNoを送りつけたにもかかわらず、霧雨が灰色の街を濡らす土曜日の夕方、エリオット・ギルバート・ハーバートは満面の笑みとともにサヴィル家の玄関に飛び込んできた。  陽光を吸った金の髪も、地中海の青さが煌めく瞳も、このロンドンには眩しすぎる。閊える喉、騒ぐ胸。気の利かない挨拶を返すのにさえ時間を要した。 「やあ、ハーバート……思ってたより早く解放されたんだよ。君こそ、なぜここに?」  相手はオックスフォードが卒業させることを渋ったほどの優等生だ、手紙の意味が呑み込めなかったわけはない。イレギュラーな事態に賭けて立ち寄ったのか、最初から嘘を見抜いていたか。どちらにせよ、私が彼をその他大勢の人間と同じように遇することができないのは、こうして私の意思に反して真実を突きつけてくるところにも原因がある。  会ってしまえば明白だ。私はこの聡く美しい友人に会いたかった。それゆえに、会うことを避けていたのだ。  腹の内はどうあれ、何も知らない純真な少年のように相好を崩し、ハーバートは額に張りつく前髪を掻き上げてみせる。 「ロンドンでの仕事は済んだものの、ひとりで音楽を聴く気分じゃなかったから、帰る前に確かめにきたんだ。何らかの事情で君が在宅してるかもしれないと期待してね。そしたらどうだ、僕も運がいいらしい。ああ、体調が悪いわけじゃないよな? 寝ていたように見えるが」 「大丈夫。移動の疲れが出て、うたた寝をしてただけだ」 「よかった。着替えられるか? もちろん、君が姪っ子の初々しい演奏の余韻に浸りたいなら無理にとは言わないぜ」  茶目っ気たっぷりに目を光らせる彼に袖を引かれ、なお首を横に振れるほど、私の心は冷徹に出来てはいない。ベルガモットとジャスミンが香る爽やかなコロンも、奥深くに仕舞い込んだYesを引きずり出すには酷く効果的だった。  気品溢れる白皙の青年と並んでも恥ずかしくないよう、寝起きの独身男から身分相応の紳士に変身する時間である。彼の世話を使用人に任せ、私は階上の自室に向かった。  ジャケットとシャツは一番新しいものを。タイは彼と同じネイビーに。艶の消えた黒髪を整髪料で撫でつけ、朝の剃り残しにカミソリを当てる。いつも10分で済む身支度に倍の時間を費やすことで、鏡の中にそれなりの伊達男を作り出すことができた。 「すまない、待たせてしまった」 「いや、これほどの男前を連れて歩けるなら待った甲斐がある。ご婦人方が放っておかないだろうな、サヴィル」 「君には負けるさ」  彼の賛辞は社交辞令だっただろうが、私のそれは本心だ。前世紀の中頃から時間が停滞しているサヴィル家の古臭い内装も、彼がそこに佇んでいるだけで名画の風格を醸し出した。生まれついての美貌を洗練された所作と装いが引き立て、しばしば異性のみならず同性の関心を呼ぶのがこのエリオット・G・ハーバートなのである。  オックスフォードの芝生で仔犬のように跳ね回っていた時代から5年が経過した。年齢を重ねても彼の美しさは衰えず、男の骨格が完成したことで色香すら漂うようになっていた。ブライトン近郊にあるハーバート家は家柄もさることながら資産も潤沢で、花嫁希望者が後を絶たないという話だ。 「僕は放っておかれたいんだがね。望みのない求愛行動など人生の浪費だ」  もっとも本人は年中この調子でフラフラしているので、彼の両親は頭を悩ませていることだろう。ついでに言うと私の悩みの種でもある。彼が早く家庭を持ってくれれば、手綱を握るべき妄想も生まれないのに。 「……実際のところ、最近どうなんだ。噂じゃパーマー教授のアレックス嬢が君にご執心だとか」  通りでタクシーに乗り込んだあとも、ハーバートは珍しくその話題を続けた。すでに過去のものとなった名前が、苦い記憶を呼び覚ます。
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