1909 in London

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「残念ながら、とっくの昔に父娘両方から見限られてる」 「おや。何が気に入らなかったのか聞いたか?」 「お世辞が不得意なところ、控えめなようでいて理屈を並べはじめると譲らないところ、女性にも学術的見解を求めるところ……だったかな」  本当はもっと英国人らしい持って回った表現だったが、要約すればそのような不満だったはずだ。内容が内容だけに、誤解ですとも改善しますとも言えなかった。  見るとはなしに窓外を眺めていた彼は大仰に嘆息し、そのわりには優しげに眉を下げる。 「馬鹿馬鹿しい、全部君の長所じゃないか。まあ、わからん連中には何を訴えても伝わらんのだろうが……ほかに見込みは?」 「姉が頻りに友人を紹介してくるよ。しかし女性の見極め方を知らないから、いまいち身が入らない」 「晴天に傘は無用の長物。関係諸氏には目的のない者に手段を与えて結果が得られるなんて都合のいい話があるかを真剣に考えていただきたいね。まったく……いらぬ苦労が多いな、我々も」  当然のように「目的のない者」には彼自身が含まれていたが、そこで彼は唇を休め、視線だけを外に動かした。  走行音と雨音の合間を縫って、少年たちの声が聞こえていた。親と教師くらいしか怖いものがない年頃の子だ。服が汚れるのを気にも留めず、ぬかるんだ道を笑いながら駆けていく。 「……この話題はやめよう。面白くも何ともない」 「君がはじめたのに」  混ぜ返せば、手袋に包まれた右手が私の膝を叩いた。むろん私とて結婚などという旧時代的な制度について論じたいわけではない。むくれるような彼の顔つきに満足したので、足を組み替え、その希望に沿って別の話題を提供する。 「そういえば例の大型客船、建造は順調に進んでるのかな。船旅はともかく、どんな船に仕上がるのか少し興味がある」 「ああ……どうだろう、ホワイト・スター社は焦ってるみたいだが。僕は船旅のほうが気になるな。ニューヨークへの渡航が快適になるに越したことはない。君はアメリカが苦手だったか。それとも海が?」 「どちらも好ましくは思うさ。とはいえ、未知の世界なんだ。近付くには勇気が必要だろう」 「その臆病さは君の短所だよなあ」  幾分直截的に思われる指摘もまた、私を傷つけはしなかった。金の睫毛が重なる目尻に、明らかな親しみと慈しみが滲んでいたからだ。  ソーホーで車を降り、適当なパブで腹ごしらえをしたあと、私たちはクイーンズ・ホールに向かった。逸れ者のフランス人が紡ぐ夜想曲は非常に甘美で、オーケストラの演奏も見事なものだったが、最も輝いていたのが私の数インチ隣にある横顔だったことは言うまでもない。音色の煌めきに照らされたそれを繰り返し盗み見て、衝動に駆られる指を掌に縛りつけながら、私はこの一夜が特別な思い出となることを確信していた。
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